あすてろいどエッセイ

1997BQ: Wertest not thou the Mephisto?

                  長谷川 隆(東大理木曽観測所)


地球人で最初に小惑星1997BQにおめにかかる光栄を私に授けた運命の女神に感謝しよう。だが、もっと感謝さるべきはその時に木曽観測所にD. Asher氏を滞在させた女神だろう。彼の予備知識とサポートなくしてはこの太陽系の放浪者は再び人類の目が届かぬ暗闇に静かに姿を消していただろう。だから、私は二人目の女神への讃歌を書き写しているに過ぎない。

その太陽系の放浪者は静かにCCD画像に写っていた。

1月16日明け方の木曽シュミットの観測はとある重要な書類書きの期限を4日後にして何を書くか考えながらの観測だった。13日から始まった単身の観測は天気予報に反して砂漠のように晴れが続き、さすがに疲労もたまりはじめていた。書類の推敲の時間はいくらあってもいいから、少しは曇っても文句は言わないくらいのつもりだった。無論観測しながら撮れたてのデータを見る喜びは減らなかったが注意力は確実に衰えていた。とにかく冬の観測は一日が長い。夕方は4時半位からソワソワしはじめ、5時半には(夕飯も食べずに)観測を始め、朝は6時までは観測できる。おまけに、私の観測は多数の較正用のデータをとるので余分に2時間位はかかる。だから1日のうち15時間は観測だ。重労働なのだ。

しかし木曽シュミットは巡礼に値する望遠鏡なのだ。シュミットは評判は芳しくない。だが(ひいき目にみれば)そういう人達は二、三日偶然天気の悪い日に観測に来て気象条件、とりわけseeingの悪さに気絶せんばかりになって帰るからなのだ。だが、木曽で本格的な観測巡礼を始めて2年近くなっていた。木曽の暗い空とシュミット望遠鏡の広い視野と明るい光学系がいかに強力であるかを身をもって知り始めていた頃だった。なぜこれだけの光学系でありながら深い宇宙に住まう銀河の観測がなされてこなかったのか不思議な位だ。見給え、この暗い銀河を。

こころの闇の暗きをば み法の燈こそてらすなれ

空が暗い木曽の深い山中での巡礼者の喜びは、懐深き宇宙の奥にひそやかに住まゐする銀河に会えることだ。データ解析の修行を一番積んだ巡礼者ほど、よりひそやかな銀河に会うことができる、それが巡礼者の楽しみだ。ぎらぎら明るい銀河はどこでも観測できる。主張しないものへの慈しみをもって寂たる宇宙の声を聞く、そういう喜びがシュミットの観測なのだ。西の山に

永劫のみ光り頼む身は 照らさぬ所もなかりけり

と詠えば東の山では

一隅を照らす、これ即ち国宝なり

と返すではないか。思い上がったことにわが観測こそ木曽の使命とまで信じはじめていたのだった。

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画像にか細く白く写るひそやかな銀河は妖精のようだ。彼らは集団を好む。ところどころには銀河団と呼ばれる彼らの大都会もある。彼らは元はといえば離れ離れに生きていたのかもしれない。が、宇宙が進化するにつれ妖精はお互いの重力で集まって来るのだ。銀河団にはとびきりの妖精がいることがある。これがQSOだ。QSOは普通の銀河の100倍位は明るい。QSOは都会の中心で活発になった銀河だと考えられている。このQSOには吸収線系という影が写っている。この影のうちDLAと呼ばれる影はQSOへの視線上にいる他の銀河のものだ。もしDLAの影があるQSOの近くに銀河団が写っていれば、DLAの正体である銀河が見つかる確率も高いだろう。このような銀河は宇宙空間の電離状態や進化過程をよく教えてくれる。だからQSOの近くに写って見える銀河団があればこれは極めて興味深いのだ。私が会いたい銀河はそういう連中だ。

天体の運動は速く、あっという間に天体は南中を過ぎ西の空へ沈み始める。妖精と会話できる時間は限られているのだ。いかに光学系がよくとも口径が1mしかないシュミットが天体から光を集める効率はけっして良いとはいえない。今晩はどれだけひそやかな銀河に出会えるだろう!それに天気予報が下り坂でいつ崩れるともしれない天候では30分の露出の間晴れ続けてくれるかも不安だ。晴れ続けてくれさえすればそういう時の方が観測には適しているのだが、曇る時は星が暗くなって来たなと思うやいなや雲におおわれてしまう。曇ったなと思ったら、それ以来一月晴れ間を見なかったというようなこともある。そんな時は当然のように晴れていた時が楽園のように思い出され、またとうとう晴れて来た時は前にしばしば逢うていた人に突然会った時に相手の様子を伺う時のような気おくれがあるものだ。

そして30分か40分かが過ぎ画像が撮れたことを知らせる音がした。観測では望遠鏡のシャッターの開け忘れや望遠鏡のガイドを忘れることが時折ある。慣れてくるとそれこそ忘れた頃にこれらのことを忘れるのである。或はフィルターが正常にセットされないこともある。フィルターがセットされなければピンボケになり、星は指輪のように写ってしまう。大概夜明けまでの時間をみながら観測予定を決めるから、30分位の長い時間露出の失敗は一日の観測計画全体に影響する。極めて限られた時間しか割り当ててもらえない観測では最終日の失敗は一月あるいは数ヵ月の遅れになり、最悪天体が上がって来ない季節になってしまえば一年間会えなくなってしまうのだ。いくら天界はシンプルな法則に従うとはいえ、いやむしろシンプルな法則に従うからこそ、ひそやかな妖精に会うのは人界よりも待ち遠しいこともあるのだ。だから撮れた画像を表示する瞬間は何度観測しても心臓に悪く、またうまく撮れた時の安堵と妖精の瑞々しくも神々しい姿は深い観測をするものでなければわからないだろう。

その太陽系の放浪者は静かにCCD画像に写っていた。

悪いseeingで観測すると星の像は太って見えるが、良い条件で観測すれば星の像はとてもスマートだ。スマートな星の像の時は小粒だがカウントは非常に高くなる。そういう時は画像が輝き出しそうなくらい生き生きして見えるものだ。その時の画像も木曽で撮れる画像の中でも上等な部類だったろう。見給えこの暗い銀河を!自分が見つけた銀河だ!ここには銀河は群がっているぞ、こいつは大漁だ!さっきの画像ではかすかにしか写っていない銀河が大分はっきり見えてきたぞ、シーイングがよくなったせいか天頂に近付いて大気の影響が小さくなったからかもしれないな、いずれにしてもいい傾向だ。ここにある銀河の群れはQSOからは随分離れているな、これではこの銀河団はQSOの視線をまたがって広がっているとはいえそうにない、ちょっと残念だったな、、、まあ、そんなに偶然はあるものではない、これだけ遠くの銀河が写ればそれらの分布の研究だって待ち遠しいというものだ。。よし、今晩は絶対完璧な較正画像をとろう。残りは300Mbyteはあるから較正用の画像は150枚は撮れるはずだ。これだけ枚数を重ねれば較正のノイズは0.2-3%まで落ちるだろう。これまでの画像より大分暗い銀河まで検出ができるに違いない。。これを是非書類で強調しよう。それにこれは巡礼者だからできる観測なのだ。観測を順調にこなすには時折のトラブルに俊敏に対策できることが重要だ。ある程度続けて観測して、システムの調子を把握していなければトラブルが起きても瞬時にその原因が推測できないし、最小限の時間でそれを確認し対応できるというものではない。一つのトラブルは平均1時間は無駄にする。1日12時間の観測は長いとはいえ無駄な時間は1分もないのだ。

次のフレームも会心の写りだった。

太陽系の放浪者の筋は画像の真ん中やや右の上から音もなく下へ降りてきていた。ようやくその存在が気に留まりだした。そうだ、今小惑星屋が観測所にきているから知らせよう。外人の方が日本人よりよく働くものな、いいみやげというものだ。。。そういえば博論で調べた南天のシュミット望遠鏡の乾板にも小惑星が写っていたっけ(写真乾板だが、天体のサーベイ用に非常に暗い天体まで写るように長い露出をかけたもので、全天を覆うように撮られている)。私はその時の記憶を探った。小惑星の筋はあのモニターテレビの画面の3cm位だったか。。。ということは移動量は30秒角くらいだろう。あの乾板は少なくとも1時間は露出しているから、ならば30分の露出なら15秒角位の動きということになるな、してみると、目の前のやっこさんは4倍位は俊足ということになる。ま、もっと速いのもあるんだろう。。。CCDで長い時間撮像していればもっと見かけの動きが速い人工衛星がガラスを割ったように筋を引くこともあるし、小惑星だって動くから筋になる。筋が写ることは割合頻繁に起こることなのだ。この間の公開日だって動く小惑星を見つけるクイズを出したではないか。

小惑星は「あれくらい」は動くもんなんだ。。。

そろそろ次の画像が取れる頃だな、ちゃんと取れているだろうか。

あらゆる意味で小惑星に感動する心理回路は封鎖されていた。。。

彼はまさにうってつけの専門家だった。

画像を見たもの静かな放浪者ハンターAはやがて落ち着いた口調で画像のサイズと露出時間を尋ねた(もちろん英語は創作)。

A: Really moving this distance within 30 minutes?

H: Yes, it is my typical exposure time. This movement is projected on to the sky, and so, possibly,...

A: Ja.... (converting 1 arcmin / 30 minutes into 120 arcsec/hour,

accessing to his database on the speed of asteroids, computing

statistics for significance that this one is definitely 'unusually' quick moving asteroid... )

H: If you will kindly hope to derive the orbital elements....

A: this one is,..., moving quite fast...

H: I'm pleased to make these frames available for you.

A: ... Unusual...

H: ...

これはいくらなんでも誇張だが、要は私はその重要性を全く理解していなかった。だって、見かけが速くとも遠くでぶーんとまわっていればそれでいいではないか。だがこの小惑星が地球の近傍を動いていることを感じとったハンターAは静かにデータを持ち帰り土日にすでに作戦を開始していた。5日後、幼い巡礼者はやっと小惑星の追加観測が必要かどうか、いかに小惑星の速報を報告するかなどと、おぼつかない質問をしたものだった。その時点では3日前にはMPEC(Minor Planet Electronic Circular: 電子メールで小惑星や彗星の情報を伝える回報)に危険天体発見の連絡が送られ、wanted(要確認天体)としてinternetで世界中をまわり、数件の目撃情報をもとに軌道要素がほぼ確定していた。地球と太陽の距離の3%にまで近付き得ることを見出したハンターA氏による色彩も美しい軌道の説明図まで完成していたのだった。その数日の世界のハンターの食いつきの鋭さたるや、水漕にいれられた金魚に群がるピラニア或はジャングルでシマウマに群がるライオンとでもいうべきだったろう。

それ以来、ハンターとの間で思いが投影された楽しい手紙の書き方教室が始まった。重要性を認識したら止まらないのが我が巡礼者である。何をすべきかを考え、その必要性を尋ねた。例えばひょとしたらこの小惑星はこれまでに見つかった小惑星と同じではないのか。質量は?明るさは特に明るいということはないのか?無論一枚上手のsuggestionが返ってくる。これまでの写真乾板に写っていたかもしれない。だが、これはもう少し軌道要素を決めてからの方がいいだろう。そこで、I will sleep to find a good news about this. と書き、

We should sleep to find a good idea. と返された。仕事をしない時は十分解放感を味わうのが外人というものらしい。とはいえ、私は他人を評価する資格はないけれど、彼の反応は素早かった。そして長期休暇で帰国する前でもこれだけは別だよといって無理な願いも聞いて図の改良もしてくれた。私は指をくわえて待ち、木曽天界に彼の名誉を表するしかなかったようだ。

一段落してからはアンビバレンスの日々が始まった。

見つけはしたものの、発見者が何もせず端で指をくわえてみているほど滑稽なことはない。サービス観測ではデータだけ取ってその後の処理(つまり天文学的な意義を明らかにすることだ)は人に任せることがある。その時でさえ自分が処理をしないことにもどかしさ覚えるものである。自分は聖徳太子ではないのだからといい含めてデータを渡すのだ。今回は偶然とはいえ、自分がそれなりの名誉を与えられるにも関わらずその後に関して何もしない等ということが許されるのだろうか?泰然として仕事をまかせるにはまず夜汽車の旅行をやめて大名旅行から始めるべきかも知れない。人の世話になりながら小惑星で名を残すことになる人間が小惑星観測に意義を認めない分けにはいかないだろう。しかし、そういう契機で小惑星探査を評価するのは不純だ。もっと小惑星に取り憑かれてこそ小惑星にのめり込む資格もあろうというものだ。

原因はそれだけではない。発見の意義は極めて明快だった。その小惑星がいずれの日か我々の子孫の手によって撃ち落とされるかも知れないということだ。だが、私にとっての意義は全く明快ではなかった。それが私に会心の笑顔を許さなかった。私の全ての目標は暗い銀河だったはずだった。その銀河の発見で私の画像は踊るはずだった。その目標とは別の所で私の観測がひきあいに出るというのをどう考えたらいいのだろう。自分の観測の進みが遅いことを意味していた。そういう種類の観測であるとはいえ、成果を出さねば浮かばぬ世界でははがゆさを痛感する。

それに、天文学の発見ではその発見がone of themかどうかという問題がある。宇宙にはいろいろな天体や現象があるが新しい種類の天体や現象の最初の発見は新しい天文学を切り開くという意味でこれほど重要な発見はない。その天体の正体が一体なんであるのか100人200人がやっきとなり、1000人の出版者の方々が群がる。やがてこの新しい天体と同じ種類の天体が他にないか探査が進む。

one of themの発見というのはこの段階のことだ。この段階では数が増えるにつれ統計的な推定が可能となり、その天体の平均的な性質が知られて来る。が、完全に平均的な性質が知られるのは統計的に十分な母集団が得られた時だ。だから途中で一つ二つ天体が増えたところで、それは発展途上でしかなく、必要ではあるがその発見の意義は薄いとも言える。1997BQは果してこのケースではなかったか。

とある方のFAXには’(事後処理のことは)当然ご存知のことと思っていました’、’ご自分の星’を観測して見て下さい、などと書いて頂いた。これらの言葉からは、太陽系へのあたたかいいざないの他に、(当人の意図ではないと願うが)太陽系天体の全地球的ネットワーク機構も知らずに、宇宙は、などと生意気なことを研究会で話している自分への無知さぶりがただよってきたのであった。

命名権があるということだった。幼少よりこのよわいまで単身木曽御獄霊峰巡礼の旅を続けるなど親不孝も甚だしい。それにどうやら孤独に慣れすぎたようだ。かつてギリシャ神話(だったか?)では死んだ愛しいものに名前を付けて天の星座に還したという話もあるやと聞く。ならばこれはせめての親孝行の機会ではあるまいか。だが、この考えは一瞬にして木葉微塵になった。彗星なら、発見者の名前がつくのだそうだ。が、観測所の設備を使って見つけた小惑星の場合は国際的委員会で承認されるに足る合理的な名前でないといけないというのであった。確かにFAXをよく見たらたしかに命名(提案)権と書いてあった。

というわけでずうずうしい希望は当然敗れさった。いずれにせよ天界は個人的

名誉で汚してはならぬということであろう。やむをえん、俊馬の小惑星にあやかって、今夜のカクテルにしまうまとでも名前をつけることにしよう。

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書類は採用されなかった。1997BQは果して女神であったのか。ついている人間は徹底してついているという考えからすれば私には1997BQはメフィストーではなかったか。仕事のない恐ろしさを肌で感じ、裏街道を知り、深いたしなみを始めるようになったのはその頃からではなかったろうか。。

今月の観測所はヘールボップ・ラッシュだ。平安の地を求めて脱出しよう。

思いきや深山の奥にすまゐして 雲居の月をよそに見むとは

私のタラはいずこ。


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