ちょんまげ頭で見た天体(第1回)

  時は幕末・天文に興味を抱いた鉄砲鍛冶、一貫斎国友藤兵衛の天体望遠鏡

                      渡辺 文雄(上田市教育委員会)


 日本人が始めて製作した反射望遠鏡として、現在の滋賀県長浜市国友町の鉄砲鍛冶 「一貫斎国友藤兵衛」の手によるものが、国内に4台現存してる。1台は一貫斎国友藤兵 衛の生家、1台は彦根城博物館、1台は長浜城歴史博物館、そしてもう1台が長野県の上田 市立博物館に所蔵されている。「この望遠鏡が金属反射鏡でありながら、現在も163年前 の輝きを保っているのが何故だろう」と疑問を持ったグループがあった。この記事は現在 上田市の「上田市立博物館」に所蔵されている国友望遠鏡の1号機を調べたこのグループ、 すなわち学術調査チームからの報告でもある。

国友藤兵衛作になる反射望遠鏡

 一貫斎国友藤兵衛は晩年の9年間を天体望遠鏡の製作と、天体観測に費やした。だが そんな彼の名も、その残してくれた天文学上の業績も、知る人は極めて少ない、それは彼 が天文学者でなかった故でもあろうし、冒頭に述べたように、その業績が晩年の9年間の みに限られ、その後継者もいなかったことも不幸にして彼の名を埋もれさせてしまった大 きな理由であるように思う。そして、忘れてならないもう一つの大きな理由として、この 時代の天文学は暦を作る、つまり暦学のための天体観測が主であったことが上げられる。

 国友藤兵衛(安政7年〜天保11年・1778年〜1840年)は江戸時代後期・幕末の国友鉄 砲鍛冶の代表的な人物である。幼いころの名前を「藤一」、後に父の名を継ぎ「藤兵衛」 と名のり、また一貫斎または眠龍とも呼ばれた。さらに鉄砲鍛冶であったところから、 良く当たるようにということで「能当」など、昔の人は幾つもの名前をもっていたようで ある。この藤兵衛が製作した望遠鏡の鏡筒には「江州国友眠龍能当」と製作者の名が彫刻 されている。

 安政7年10月3日、近江の国 阪田郡国友村〜琵琶湖東岸長浜地方(現在の滋賀県長 浜市国友町)に生まれ、寛政6年、17才で家督を継ぎ、代々の幕府御用鉄砲鍛冶職を務め た。その後、年寄脇役の地位にあったが、文化14年には41才で年寄格に進み、幕府御用国 友鉄砲鍛冶集団の総代となった。

 これより前、文化8年彦根藩から(二百目玉筒)…450両…の注文を受けたことから、 年寄り連中と多年に渡り抗争を続けたといわれている。この問題で藤兵衛は江戸に召喚さ れ、奉行所での取り調べを受けることになる。しかし結果的には時代の流れと、藤兵衛自 身の優秀な技能によってこの圧迫を脱し、国友鉄砲鍛冶仲間を指導して諸候の愛願を受け ることになった…彦根事件…と言う。生まれついての器用さと旺盛な研究心に培われ、因 習的な技法に科学的な改革を加えて、鉄砲製作技術に優れた才を発揮した。諸藩の抗争も ない江戸時代後期、安定した政治社会で低迷する鉄砲鍛冶集団のなかにあって、文政2年 には(大小御鉄砲製作之法)を著わして、幕府に献上するとともに、鉄砲製作の教科書と して公開した。また将軍家から依頼された空砲(空気銃)…オランダから将軍に献上され た…の修理にあたって、これを詳しく研究して独自の工夫を加え、20連発式の空気銃を考 案、製作して献上したとか、或いは棒火矢(現在の榴弾砲?)の製作も行っている。…多 分この流れを汲むものが現在の秩父地方や、長野県の南信地方の小さな村に伝えられて いる、「龍勢」と呼ばれる民間のロケットに近いものではないかと私は想像してい るが…。

上田市立博物館

 前述したように、彼の仕事は本来の鉄砲製作のみに止まらず、軍用の銃火器製作全 般に渡ってその独創性を発揮した。またそれに加えて、火器を中心とした兵法の研究など 鉄砲鍛冶としての職業面でも、非常に大きな業績を残している。このように一貫斎は技術 的にも極めて優れており、さらに彼の豊かな独創力が優れた技術と結合し、幾多の新しい 機械や器具を製作した。その範囲は鉄砲鍛冶の分野に止まらず他の方面へと拡げられ、幕 末の日本の科学技術に重要な1ページを開いた。本報ののテーマ、天体望遠鏡の製作と天 体観測は、彼にとっては自由研究(趣味…と私は考えているが)の分野といえるものであ る。

 その他、藤兵衛の研究の一つに「空船」というものがある。望遠鏡に関連する調査 を進めているなかでこれを見つけ、「日本人もこんな研究をした人が居たのか!」とびっ くりしたものである。藤兵衛の話を残した文書では、これは次のような表現になってい る。

「風船を作りて空を行、翼を作って鳥を翔ることもなりがたきときに非図、其法は公 儀へ申し上げておきたりと云。然も是を作るには其費用莫大にかかるなりと云」。

驚くべきことに、彼は飛行船(或いは飛行機というべきか?)の研究までしていたと いうのである。いずれにせよ、彼が数々の業績を残した背景には、生れついての才能と 共に、7年間に及ぶ江戸帯在期間中に得た洋学の知識、そして鉄砲鍛冶として長年培って きた技術的な裏付けが大きく貢献していたと考えられる。

 先に述べたとおり、天体望遠鏡の製作と観測は一貫斎の晩年9年間を費やした研究と その成果である。しかし残念なことに当時江戸幕府の天文学は暦学中心であったので、 天体の位置観測が重要視されていた。そのため彼の太陽黒点の観測・月面・惑星観測等に ついてはあまり知られることもなく「一貫斎」の名前が天文学史上に登上するのは近代天 文学の時代になってからである。一貫斎は、天保3年(1832年)に望遠鏡の製作に着手し、 同5年には一応の完成を遂げたが、その後も命没するまで改良を加えたという。

「テレスコッフ遠眼鏡業試留」と表紙に書かれた望遠鏡の製作記録に散見される、 「神通」あるいは「神通叶」等の言葉から、私たちは一貫斎の天体望遠鏡完成に掛ける 熱意と、深い信仰心を感じ取ることができる。それを裏付けるかのように、一貫斎の製作 した天体望遠鏡は、当時幕府天文方の「間 重新」(大阪)によって、イギリス製の同形 式の望遠鏡の2倍の倍力をもち、像も非常に優れているという評価を得ていたということ である。(以下次号へ)

参考文献 国 友 文 書

     国友藤兵衛 望遠鏡製作の記録 一貫斎国友藤兵衛伝              「海軍大佐」 有馬成甫 昭和7年


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