ちょんまげ頭で見た天体(第2回)

  時は幕末・天文に興味を抱いた鉄砲鍛冶、

     一貫斎国友藤兵衛の天体望遠鏡

        渡辺 文雄(上田市教育委員会)

   (写真は国友藤兵衛の作になる反射望遠鏡)


天体望遠鏡の構造

 一貫斎が文政3〜4年頃、江戸の「成瀬隼人正邸」で初めて接した天体望遠鏡は、イギリス製の「グレゴリー式」であったらしいと言われている。事実、一貫斎の天体望遠鏡は、この形式にもとずいて製作されている。その構造は、二本の筒(主鏡筒・接眼筒)二個の反射鏡(主鏡・副鏡)、そして三個のレンズ(製作の記録では三個のレンズとなっているが、我々の調べた範囲で現存する3台はともに2枚玉のハイゲンス式アイピースであった)からなる。

 鏡筒は真鍮(黄銅)で全長370.8mm、接眼筒70.3mm(主鏡筒はめ込み部分を含む)、反射鏡は銅と錫の合金・・(詳しくは後述)、そして接眼レンズである。その構造については次の略図を参照して頂くとして、簡単にグレゴリー式(Gregoryan)反射望遠鏡の光学系について述べておく。       

 これはイギリスの数学者ジェームス・ グレゴリーによって考案され1663年に発表されたもので、主鏡には凹面のパラボラ鏡を、副鏡には凹面の楕円面鏡を主鏡の焦点位置より外側において、それぞれ独立に球面収差を除き引き伸ばされた合成焦点を穴を明けた主鏡の後方に取り出して接眼レンズで拡大して見るという方式である。グレゴリー式は正立像が見られるため、色消し対物レンズが発明されていなかった当時としては、色がつかず筒長も単レンズ対物鏡に比べると著しく短縮できるので、その後色消しレンズが発明されるまで、風景用としてヨーロッパでは貴族たちに愛用された。・・『当時は主鏡、副鏡ともに金属鏡であり、わずか2年前後で見えが悪くなるものであったが、それでも径7cm前後の小口径機が数多く製造されていた』・・・とほとんどの本の関連の記述は、金属鏡は錆びてしまうので数年で反射鏡としての能力は失われる、とされていることに注目して頂いて、次号以下のこのシリーズをお読み頂きたい・・・

 さて、一貫斎に先行して日本で作られた望遠鏡は全て屈折式望遠鏡であり、全長は2m前後であったらしい(例えば測量で知られた伊能忠啓の測器目録に記された岩橋善兵衛の名がある望遠鏡は1つが7尺5寸、もう1つが5尺となっている)。

 [・・・今年3月12〜13日に大阪でこの岩橋善兵衛作の屈折式望遠鏡を見る機会に恵まれたが、2mを超す鏡筒を支えて見るためには2人掛りであった、筒が紙でできているため思いのほか軽いが・・・]

 勿論この当時は単レンズであったため 色収差によって、見える像の周辺には虹のような色が見えるが、この色収差の影響を減らすためにも焦点距離の長いレンズを好んで使用したものと考えられる。さらに、レンズ周辺の諸収差をできる限り押さえるために、レンズの口径を極端に絞って中心部の光学特製の良い部分のみを使っているので、見える像はかなり暗い。当時のこのような屈折望遠鏡と比べたら、反射式の色収差のないクリアーな像は多分本来の性能以上の評価を受けることは間違いないだろうと推測できる。

天体望遠鏡の製作

天体望遠鏡の製作は、天保3年3月に長浜町の「小兵衛」という真鍮職人に真鍮製の部分を(鏡筒・接眼筒・架台)発注して始められた。しかし実際の研究はこれより前から始まっていたようで、この年の2月には反射鏡の型取りの記録がある。一貫斎が参考とした望遠鏡は、イギリス製のグレゴリー式であったことは前述の通りであるが、しかし一貫斎が製作に着手したのは、始めて望遠鏡をみてから10年以上を経過してからである。一度見ただけのものを真似られるわけもなく、またそれを積極的に真似ようという考えも無かったと考えられる。事実、一貫斎の製作記録で見ると、「成瀬隼人正邸」で見た望遠鏡に関しては、レンズと反射鏡の関係距離を測定したものにすぎない。、したがって、原理においてはこれにヒントを求めたと考えられるが、その製作は一貫斎の独創によるものと言われているる。しかし我々は大阪の天文学者や蘭学者との交流があったのではないかと考えている。

 

     図2 グレゴリアン構造図(藤兵衛の直筆)

 

  図3 反射鏡の焦点距離(藤兵衛の直筆)

 ただ、反射望遠鏡の心臓部である反射鏡については、藤兵衛が望遠鏡の製作に取りかかる以前から、神社のご神体と言われる鏡を磨いたり、魔鏡と呼ばれる鏡の表面に陽があたると、裏側の模様が表面に浮き出すと言うような鏡も製作したり、 水銀鍍金(メッキ)によらず青銅からの磨きで鏡を製作する方法を確立していたため、反射鏡そのものには自身があったと考えられる。それにしても、反射鏡の鋳造には何度となく改良を加えたものらしく、天保3年6月を最初として、翌年の8月までかかって鋳造法を一応完成しているが、この内容はおもに銅と錫の比率を変えて最も良い条件を探したものと考えられる。一貫斎が反射鏡:望遠鏡の製作を始めた頃(1832)の記録では、Cu 64.5%、Sn 35.5%とあり、鏡の鋳込みには失敗している。さらに翌年の記録には、Cu 64.9%、Sn 35.1%で成功させている。そして最終的には、1835年の記録で、Cu 62.3%、Sn 37.7%で最終的な成分比をここで確立したようである。

 ここで比較のためヨーロッパの金属鏡の組成比を示す。

・ニユートンの金属鏡:Cu 66.7%、Sn 22.2%、As11.1% 、Ag 微量 

                        (吉田、1994)

・W.ハーシェルの1778年以前の鏡:Cu 70.5% 、Sn 29.5% (吉田、1994)

・W.ハーシェルの1788年製作の48インチ鏡:Cu 74.5% 、Sn 25.5%

                        (吉田、1994)

・ロッスの72インチ鏡:Cu70% 、Sn 30% (ロッスの合金、脆いので

 冷却にはアニーリングをした) (吉田、1994)

いずれも、数字は重量百分率を表わしているが、金属鏡は銅と錫の合金である青銅製のものが殆どであるが、製作者や時代によってその組成比が微妙に違っている。ヨーロッパで作られた反射鏡と、一貫斎の反射鏡を比べて見るといずれも錫の割合が大きいことがわかる。ちなみに鏡銅と呼ばれる銅合金は以下のような組成である。

・speculum metal (鏡銅):Cu 68.165% 、Sn 31.835% (Cu4 Sn, 1879年、L.M.Rutherfordが、平面研磨してダイヤモンドカッターで溝をつけ、最初に回折格子を製作して以来、回折格子の基盤材料として使用されてきた). 反射率はλ500nmで、61%である。(Born & Wolf. 1959)

したがって、我々は鏡銅の平均的な反射率は61%程度という数字を今後の調査では、一つの基準と考えてゆくことにしている。



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