渡辺 文雄(上田市教育委員会)
さて、前2号で一貫斎の人物像についてその特徴的な部分について紹介したつもりであるが、今回からは実際の望遠鏡について我々が具体的に調査を行ったことによりわかってきたことについてお話ししてゆきたいと思う。
まず、この望遠鏡は現在「長野県上田市の、市指定文化財」となっているため、学術調査とはいえ、それなりの手続を経て、許可を得なければ簡単に手を触れる訳には行かない。それは承知の上で、それでも恐る々々上田市立博物館への交渉の口火を、私が切ることになった。「こんなことを、こんなメンバーでやりたいのですが、許可を得られる可能性はどんなものでしょう?」私自身が市の職員であり、博物館と同じ教育委員会に所属していること、もちろん館長とも面識がある、という立場を、この際十分に生かさなくてはというわけである。 実は、私自信十数年前この国友望遠鏡について、その製作者である国友藤兵衛の人物像、及この望遠鏡が製作された当時のバックグランウドについて若干調査した経緯があり、ある程度は国友望遠鏡についての知識があったことが、博物館との交渉において役立ったことは幸いであった。
今回の調査は第1回めに記した様に、国友望遠鏡学術調査チームを編成して行った。たまたまこの望遠鏡をみた京都大学の富田氏が、その金属鏡に興味を持ったところからこのチームはスタートしている。国友望遠鏡の学術調査の許可申請は当初8名ほどのメンバーによってなされたが、その後各種の調査項目で研究者の専門的な知識が必要となる度に該当する研究分野の専門家にチームへの参加をお願いし、ボランテイアで調査に加わっていただいた。したがって最終的に国友望遠鏡学術調査チームのメンバーは以下の11名となった。
富田 良雄 Kyoto University
久保田 諄 Osaka Economic College
坂井 真人 Ogawa Observatory, Nagano
坂井 義人 Ogawa Observatory, Nagano
寺島 隆史 Ueda City Museum
富井 洋一 Kyoto University
中村 和幸 Nihon Special Optical Instruments
中村 士 National Astronomical Observatory
松田 勝彦 Seian Formative College
横尾 広光 Kyorin University
渡辺 文雄 Board of Education,Ueda City
先に延べたように、上田市立博物館に調査のための申請をおこなったのは、昨年の2月であった。望遠鏡の調査について地元で事務連絡に当たる私のところに許可する旨の連絡が届いたのは約2週間後である。その後チームのメンバー各々の都合が着かず、最初の調査に入ったのは7月であった。具体的な調査の全日程は、以下のとおりである。
1 本体の形状測定・光学測定
1997年7月14日〜15日 上田市立博物館
2 分光反射率・レンズの分光透過率測定
1997年11月15日 国立天文台
3 金属鏡の表面分析
1997年11月25日〜26日 京都大学工学部
エネルギー基礎科学研究所
4 兄弟望遠鏡・文献調査
1998年2月28日 長浜城歴史博物館
1998年2月29日 彦根城博物館
5 英国製グレゴリー鏡調査
1998年3月12日 大阪市立博物館
さて、第一回目の調査のためメンバーが上田入りするのは7月13日となった。ところがである、この日は折しも梅雨末期の集中豪雨のため、西日本では土砂崩れの被害が各地で発生していた。報道では中央線が大幅に遅れているという情報しかない。駅に問い合わせると、動いてはいるが到着時間はまったく当てにならないという。 京大の富田氏ほか関西から来る3名の予定は全々掴めない、富田氏の自宅に問い合わせると早朝に出発とのことであった。結局2時間遅れくらいでどうやらメンバーが揃ったが・・・前途多難な出発を思わせる国友望遠鏡調査第一日めとなった。
この日は、夕食後に宿舎である「上田市技術研修センター」で、明日からの調査の打ち合わせを行なう予定にしていた。京都から何時間も列車に揺られてきた上に、アルコールも好きという松田氏にはとても気の毒ではあったが、夕食時のビールは軽く喉を湿らせる程度にして宿舎に向かう。
打ち合わせでは、まず今回の調査のチーフになる富田氏から概要について説明をしてもらった後、私からは調査に至る経過説明を行ない、上田市の文化財保護条例に触れながら調査に関わる取扱について基本的な問題について説明を行なった。なお、多分この望遠鏡は160年間分解された事が無いだろうと言う前提で、分解の際に何か問題があった場合は、必ず元に戻せる段階で分解は止めるということが確認された。
今回の上田市立博物館での調査は、最も基本となる全体の形状測定と、光学性能調査である。したがって基本的には、分解・寸法測定・光学性能測定(今回はフーコテスト及びゾーンテストによる)・各部品の写真撮影・さらに、博物館としても興味を持っている現在も観測可能かどうかの確認を行なうことである。この点について私は、完全に分解することができて、再組み立ての段階できちんと光軸調整ができれば今も見える筈であると確信していた。
翌、1997年7月14日朝9時に上田市立博物館に集まったのは、京都大学の富田氏、成安造形短期大学の松田氏、日本特殊光機の中村氏、杏林大学の横尾氏、小川天文台の坂井真人氏、博物館長の窪田氏、学芸員の寺島氏、そして渡辺の8名であるが、それぞれ天文学・冶金学・光学機械・科学史・歴史等の専門家である。博物館2階の研究室で、マスクをかけて白い手袋をはめた8名が固唾を飲んで見守るなかで、国友望遠鏡の鏡筒が架台からはずさた、続いて鏡筒後部下面のネジがはずされ、裏蓋と和紙の押さえが外されて、鏡が取り出された・・・確かにその見事な輝きは覗き込む皆を驚愕させるものがある。「重大な錆びは発生しておらず、良好な鏡面を保っている、160年前の金属鏡とは思えない。金属学的に調べてみる価値は十分にある・・・」とは、京都大学の当時は冶金学出身の松田氏の第一印象である。
さらに分解は続くが、ほとんど真鍮製のネジが使用されているため錆びもなく(保存も良かったのであろうが)分解の段階は順調に事が進んでいる。この頃興味があるということで連絡しておいた千葉市立郷土博物館の多賀学芸員も到着して一緒に参加した。
さらに、ちょうど上田市の近くに滞在しておられた当協会の松島氏も見学にみえた。この頃になると報道陣が大勢押しかけて、狭い研究室はごった返したと言う表現が似合いそうな状態である。ほとんど分解が終わった段階で、富田氏と松田氏そして私は報道陣の取材に追われるはめと成ってしまった。午前中の予定は分解が終わった段階で、今回の調査の主目的の一つである鏡面のフーコテストを行なうことにした。
フーコテストとは、あまり馴染みの無い方も読まれると思うので簡単に紹介すると、別名「影の試験法」とも言われ、鏡面に反射された光源(光束)をナイフできる事によって生じる影の状態から、その鏡面の表面の研磨精度・状態を推定する方法である。フーコの振り子をつくり地球の自転を証明した科学者の考案した反射鏡の検査方法で、現在の科学的な手法からすると古典的で客観性に欠けるとも言われるが、非常に簡単な設備で、熟練者がテストすれば鏡面の状態は十分判断できるといわれている。
主鏡のフーコテスト像
今回は反射鏡研磨と望遠鏡製造の専門家である、日本特殊光機の中村和幸氏が担当した。大阪から大きなバッグに入れて携えて来られたテスト装置を組み立て設置する。主鏡を倒れないように垂直に固定して部屋を薄暗くしてテスターのナイフの位置を変えながら覗き込む中村氏、暫くして「ほぼ放物面に近いと思います、焦点距離は251mm です。口径が小さいので判りにくいのですが、傾向は判ると思いますので覗いて見てください」と言われた。参加したメンバーがかわるがわる覗いて見る。やはり放物面に研磨されていたのだ。一貫斎の記録によれば周辺と内側で研磨の深さを変えた方が像が良いと言っている.しかし砥石で研磨した鏡が、放物面鏡として通用する鏡面形状をなしていることが先ず驚きである.しかも中村氏によれば鏡面精度は λ/4と程度推定されるということで、これは現在の量産反射望遠鏡の鏡と同程度もしくは、もっと良質の反射鏡に匹敵する研磨がされているということである。
「一貫斎は鉄砲鍛冶であると同時に砲術の研究家でもあったのだから、放物線は理解していただろう。放物線を回転させれば放物面を作ることはできる・・・」と言うのが杏林大横尾氏の推論である。和算では放物線を解析できないとと言われているが・・いずれにせよ国友望遠鏡の主鏡は放物面に研磨されていたことが確認された。仮に蘭学書から断片的な知識を得ていたとしても、この事実が一貫斎の試行錯誤の結果であるとしたら、現代のハイテク技術につながる、江戸時代の日本の技術力の象徴と言えよう。 (下の写真は調査チーム 右端が筆者)