Houston, I have a problem.

     第一回  宇宙に一番近い街:JSCとクリアレイクシティー

                 矢野 創(NASAジョンソン宇宙センター)


 米国南部テキサス州ヒューストン。夏には連日40度を越す気温と東京を凌ぐ湿度を記録し、ハリケーンや洪水にもしばしば見舞われます。また街を一歩離れれば、「テキサスロングホーン」と呼ばれる立派な角をつけた牛がのんびり草を食んでいる大牧場や、石油井戸の採掘用ピストンや精油工場の炎を目にすることができ、「開拓時代」の雰囲気を味わうことができます。その一方で、石油生産と医療研究と宇宙開発を産業の柱として、米国内でも有数の先端技術で栄えている都市の顔も持っています。メキシコ湾につながる亜熱帯の湿原に無数の湖や川を擁したこの街の郊外に、クリアレイクと呼ばれる浦があります。私が今年の春から勤めている米国航空宇宙局(NASA)ジョンソン宇宙センター(JSC)は、そのほとりに位置しています。
 今号から、そんなヒューストンで暮らしながら見つけたことや感じたことを、小天体衝突問題や専門分野にこだわらずに、自由に綴るエッセイをお届けします。昨年吉川さんが本誌に連載された『ニース天文台の12ヵ月』が大好評だったので、二匹目のどじょうを探すのは正直苦しいのですが、ヨーロッパのエレガントな香りにあふれた前作とは一味違う、テキサスの自然のようにスケールの大きなお話ができれば、と思っています。
 なおタイトルの由来は、「成功裡に終わった失敗」のドラマとして知られるアポロ13号のラヴェル船長の言葉、メHouston, we have a problem.モから拝借しました。普段は科学論文で三人称の文章ばかり書いている私個人の心にひっかかったエピソードを、一人称で語ろうという趣向です。どうぞよろしくおつきあいください。

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なんでもかんでも「NASA」

 NASAは全米に10近い研究所やオフィスを持っており、それぞれが米国の宇宙政策に基づいた役割分担を果たしています。その中で有人宇宙飛行の計画の立案と運用、またそのために必要な技術開発、科学研究、人材養成を行なう役割を担っているのが、ここJSCです。(シェパードはハンツビルから飛ぼましたが)グレン、アームストロングから毛利さんら日本人飛行士まで、皆さんがテレビや新聞でよくご存じの宇宙飛行士達は全員この地に暮らし、訓練を受け、宇宙に飛び立っていきました。そして彼等を無事宇宙に送り、様々な実験や活動を成功させるために、宇宙飛行士の百倍ほどの人数の技術者や研究者その他様々なスタッフが、このクリアレイクシティーに集まって、一つの巨大なチームを形成しているのです。

 クリアレイクシティーではなんでも名前に「NASA」がつきます。NASAロード1、ホテルNASA、レストランのメニューにも「NASAディナー」。マクドナルドハンバーガーのお店の屋根では、宇宙服を着た飛行士がフライドポテトを持っていたりします。皆この街にJSCがあることを誇りに感じ、また宇宙を身近に感じる土地柄を楽しんでいるようです。

 通常仕事でJSCへ訪れるにはNASA本部の許可が必要など、セキュリティーが厳しいのですが、敷地のすぐ隣にあるビジターセンターから毎日やってくる(ちょうどユニバーサルスタジオのスタジオツアーのような)トラムに乗れば、誰でも中に入って幾つかの建物をガイド付で見学することが出来ます。そのツアーの一番人気がミッションコントロールセンター。宇宙船を管制したり、通信するための部屋です。ぎっしりとモニターやスイッチパネルが並んだ机の行列と、映画館のような大スクリーンが幾つかに分かれて宇宙船の軌道や船内の様子などを映している姿を、皆さんもスペースシャトルのニュースや映画『アポロ13』等でご覧になったことがあるでしょう。アポロ13号の舞台にもなったこの部屋は、ジェミニ計画以来1996年のスペースシャトルの運用まで使用されました。現在も全てのミッションのデーカルが左右の壁高くに飾られています。今では化石のような旧型のコンピュータが整然と並んだこの部屋に行くと、人類の宇宙進出にかけた当時の担当者達の情熱が充満しているのを感じます。国際宇宙ステーションの建設が近々始まるのを受けて、96年には新しい建物にシャトル用とステーション用の二つのミッションコントロールルームが作られました。現役を引退した旧センターの入り口の片隅には、人類初の月面着陸を果たした「アポロ11号」の管制室として、「歴史的建造物」という碑がひっそりと建っています。

(図1:コーラが宇宙を飛んだのだから、次はハンバーガー?JSCの正面の国道NASAロード1 に面するマクドナルドのお店。)

月の石からスペースデブリまで

 次に、私の職場をご紹介しましょう。私は「地球科学/太陽系探査部門」という部門に所属しています。アポロ時代にはここに月の石が届けられ、初期分析が行なわれました。今はそれに加えて南極隕石や宇宙塵、宇宙から回収された人工衛星の表面にできた衝突痕等のコレクションも注意深く保管・管理されており、毎日世界中の地質学者や惑星科学者から試料の請求書類が送られてきます。2年ほど前に、火星起源の隕石に太古の微小なバクテリアの化石を発見したと発表したグループも同じ部門にいます。またスペースガードにも関連する、加速器を使った宇宙物質の超高速衝突現象の実験研究や、スペースシャトルや宇宙ステーションの活動への大きな懸念となっている宇宙のゴミ「スペースデブリ」の研究でも、NASAの中心的役割を担っています。他にもシャトル飛行士が撮影した地球の映像の解析や、将来の有人惑星探査の構想を練るのもここの仕事です。私自身は現在ミール宇宙ステーションで捕まえた宇宙塵を分析しており、その技術や成果を、来年打ち上げられる彗星探査機「スターダスト」が2006年に地球に持ち帰る彗星起源の塵の分析に応用できるように工夫しています。一緒に研究している仲間は気さくでかつプロ意識を持った優秀な研究者や技官ばかりで、毎日とても刺激的です。

 また、アポロ時代からの伝統なのでしょう、分析装置や試料の保管室もさすがに充実していて、宇宙物質の研究者にとっては宝石箱の中で仕事をしているような気分です。月の石が保管されている建物は廊下でつながった別棟にあります。そこはハリケーンや飛行機の墜落事故、果てはテロリストが爆弾を仕掛けてもびくともしない、まるで建物自体が巨大な金庫のような頑丈な構造になっているのだそうです。(それなのにハリケーンが来ると職員には帰宅命令が出るとか。アパートにいるほうがよっぽど危ないって!)

 研究者はNASA職員の他に、その倍はいるロッキード・マーティン社をはじめとする宇宙企業の研究員や私のような「NRC研究員」と呼ばれる、米国科学アカデミーの下部組織National Research Councilから派遣される者が数名、さらに夏休みのインターン学生や、地元の大学の大学院生と教官達、国内外からの短期滞在者など、様々な人が出入りしています。日本風に例えると、企業からの出向者を受け入れる宇宙開発事業団と、大学院生を受け入れる宇宙科学研究所を一緒にして全員で科学研究をしている、といった感じでしょうか。

(図2:旧ミッションコントロールセンター。今は国指定の「歴史的建造物」として観光客で賑っています。宇宙開発は米国にとって20世紀の歴史の中で最も誇れる1ページなのです。)

個性溢れる仲間達

 私の部門では私を含めてNRC研究員が4名おり、一つの大きなオフィスをシェアしています。「人種のるつぼ」の米国らしく全員国籍も専門も異なり、私以外は40代の研究者なので、お茶のみ話でもいつも新しいことが学べて新鮮です。それぞれの家へ夕食に招いたり、家族ぐるみ(でも私は独身貴族!)のつきあいをしています。次にこの素晴しい仲間達をご紹介しましょう。

 一人はモスクワ出身の地球化学者の男性で、希ガス分析の大家。しかし折からの本国の研究事情の悪化に伴い、奥さんと小さなお子さんを伴っての滞米です。先日まで20歳の長男が夏休みでロシアから訪ねてきていました。

 二人目は南アフリカの英国人社会出身の女性。原始地球の岩石からあのALH84001火星隕石の「微化石」に酷似した10~100ナノメートルサイズのバクテリア化石を発見したことで、現在とても注目されている人。鳴り物入りで火星隕石チームに招かれて来ました。彼女は母国以外にも英国、ドイツ、フランス、イタリアで勉強・研究をした経歴の持ち主で、先日イタリアに住むフィアンセがしばらく滞在しにきました。そんな彼女の「地球の最初の生命の姿を追い求める」研究も過去10年位は学界から相手にされず、NASAに来るまで4年間も無職だったというのですから、あの火星隕石が彼女の人生を変えたと言ってもいいでしょう。まるでカール・セーガンの小説『コンタクト』のヒロインを地で行くような激動の研究者人生です。

 三人目は地元テキサス出身の男性。NASAへ来るまではアフリカ大陸にいて、衝突クレーターとおぼしき地形を地質学的に証明しようとして逆に火山性地形という結論を得てしまった、これまたドラマチックな研究者です。彼は長く石油会社に務めた後、一念発起して大学院に入り直した人で、趣味はアフリカ少数民族のマスクと日本の浮世絵のコレクション!同性のパートナーがいる、名コックでもあります。

 このように研究テーマもこれまでの経緯も全く違う我々ですが、共通している点は、全員宇宙に憧れていて、自分達の研究意欲に十二分に応えてくれるJSCの研究環境に感謝しているということです。

アフター5は陸海空を駆け回る

そんな環境ならさぞ朝から晩まで研究ばかりしてるんだろうな、と思われる方もいらっしゃるかも知れません。勿論、学会前や論文の締切前には分析装置を一晩中稼働させている人もいます。ところが、大半の方は「8時間労働」を守り、仕事とプライベートを上手に切り替えています。フレックスタイムなので朝6〜7時から仕事を始めると、お昼休みをいれても午後3〜4時には帰宅できるのです。実際夕方6時を過ぎると、朝9時には一台のすき間もなく埋っていた駐車場に、車はもう1ダースも止まっていない有様です。

 ある人にその理由を尋ねたら、そもそも残業しなくてもNASAは世界一の宇宙開発の仕事をしているとまず胸を張り、それからもし国立研究所で残業すると残業手当(これは通常の給料より高い)に税金を余分に支出することになるし、残業しないと仕事が終わらないのは管理職の無能さを証明することになるのだ、と答えてくれました。なるほど一理ありますが、最初は日本の研究機関の習慣や意識(特に税金を使って研究しているという自覚が強い)と随分違うんだなあ、と感じました。でも私が見つけたもう一つの理由は、日照時間の長い夏は夜9時頃まで明るいので、午後3〜4時に帰ればそれから家族と一緒に出かけたり、いろんなことができるからです。実際クリアレイクには夕方からたくさんの帆かけボートが見られるようになり、小型のプロペラ飛行機も優雅に空を飛んでいます。また悪路が多いせいか、車種もトラック、バン、4x4がとても多く、オフロードドライブやキャンピングも家族で楽しんでいるようです。宇宙科学の最先端の研究をしつつ、家族との時間も大切にして、陸海空で自由に遊ぶ。「清貧」な独身研究者としては、なんとも羨ましいライフスタイルなんであります。

(図3:年に一度の熱気球の祭典『バルーナー祭』に登場したシャトルオービター型気球。他にも小型飛行機やパラセイリングなど、クリアレイクでは普通の人々が空の散歩を楽しんでいます。)

で、私のある一日。

じゃあ、お前の生活リズムはどうなんだ?という声が聞こえてきそうです。郷に入れば郷に従え。私も日本での研究生活に比べればだいぶ健康的なサイクルになりました。例えば、私の8月のある一日は、次のような感じでした.....

「朝6時、起床。アパートの後ろにある一周1マイル弱の湖の回りを3周ジョギング。シャワーを浴びて朝食。天気は快晴。雨の心配はなさそうなので車はやめて、マウンテンバイクで7時半に出勤。オフィスでは、コンピュータを立ち上げている間に汗を拭いて着替える。急ぎのメイルの返事を出す。宇宙関連のニュースページをWWWで読む。

 8時半、超高速衝突実験室で本日のエアロジェル試験の打ち合わせ。9時、有人探査ミーティング。火星表面に似た場所としてカナダの氷に覆われたクレーター地形のフィールドワークをしている人の話を聞く。10時、実験準備。11時に発射。成功。標的を取り出して観察。12時過ぎに昼食。食堂では、昨年土井さんと一緒に飛んだ宇宙飛行士の女性を見かける。ついでに売店で実験の様子を映したフィルムの現像を注文。絵葉書と切手も購入。13時、分析室にて衝突痕の3次元測定、画像撮影。エアロジェルの扱いに慣れてきたので作業が速い。16時半には全データが取れた。オフィスに戻ってそれをエクセルに打込み、グラフにしたら18時を過ぎた。部屋にはもう自分しかいない。標的の密度勾配とトラックの長さ、衝突物のサイズにきれいな相関が見られて予想通り。再びランニングに着替えて、やや涼しくなった頃に自転車で帰る。途中スーパーマーケットによって水や食糧を買い足し、リュックに担いで19時半に帰宅。すぐにプールへ飛び込み、30分ほどリラックスして泳ぐ。ようやく日が沈む。

 部屋に戻ってシャワーを浴びた後は、お気に入りのヒスパニックのFMラジオ局を聴きながら、夕飯の支度。この日はご飯に卵綴じスープ、メインは野菜中心の豆腐と蟹かま入り沢煮風。ピンクグレープフルーツのデザート付。21時に北米向けNHK短波ラジオのニュースを聴き、また円が安くなったことを知る。給料がドル建てで良かった、と思う次第。そこでアパートの家賃の支払日が近いことを思いだし、24時間ホームバンキングに電話をかけて、普通口座から小切手口座に家賃分のお金を移す。

 その直後友人から誘いの電話があり、歩いて一番近いバー『アウトポスト』へメキシコ産のビールをひっかけにいく。ここはかつてのテストパイロット出身の宇宙飛行士達のいきつけの店だったらしく、西部劇に出てくる酒場のようなバンカラな雰囲気が漂っている。今も壁という壁に宇宙飛行士達のサイン入りブロマイドがぎっしり貼られている。友人とビリヤードを撞いたけど、ぼろ負け。22時半、帰宅。 お昼に買ったハガキで、電子メイルを持っていないエジプトの友人に手紙を書く。バルコニーから届く夜風は生温かいけれど、浅草で買った風鈴の音色がチョッピリ涼しく感じさせてくれる。23時就寝。」

(図4:映画『ライトスタッフ』に出てくるような宇宙飛行士達のたまり場、『アウトポスト酒場』。ほとんどの人が車でやって来ます。)

ロケットパークの夕暮れ

以上第一回の今号では、次回以降のエピソードの舞台になるJSCとその周辺の土地柄や人々のライフスタイルの一端をご紹介しました。

 さて、毎日出勤する際に通るJSCの正門のすぐ横に「ロケットパーク」と呼ばれる広場があります。そこにはマーキュリー、アポロ時代のロケットが3本そびえたっています。もっともサターン5型ロケットは組み立てると高さ110mにもなるので、各段毎に分けられて横たわっていますが。私は時折仕事の後にここに来て、夕焼けに染まった広い大空を背景に影を伸ばしているロケット達を眺めます。30〜40年前のロケットは、さすがに今となっては武骨な印象を醸しています。それでも「これに燃料を詰めてフロリダに持っていけば、今すぐにでも月に行けるのか!」と夢想すると、掛け値なしに人類の科学技術と意思の力に敬意を払いたい気持ちになります。それと同時に、私がよちよち歩きの赤ん坊だった頃にJSCはすでに人類を月面に歩かせていたのに、なぜ今だに自分は地球の上を歩いているんだろう?人類がもう一度月に立つのは、火星に最初の足跡を残すのはいつなんだろう?そんなちょっぴり寂しい感慨にも包まれるのです。

 そうは言っても、やっぱりクリアレイクシティーは宇宙に一番近い街。この次月に行く人も初めて火星に降り立つ人も、皆あのロケットパークの横を通ってJSCの門をくぐり、ひとたび宇宙へ飛び立てば新しいミッションコントロールセンターからの通信を受け取ることでしょう。ここは現在、過去、未来を通じて、人類にとっての宇宙空間への表玄関なのです。

(図5:JSCを訪れる全ての人を出迎える、ロケットパークのサターン5型ロケット。世界に現存する同型ロケットは、フロリダのケネディ宇宙センターに展示されているものとこれの二本だけ。)

                           (次号へ続く)


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