長谷川一郎(大手前女子短期大学)
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由起 聡平
‘地の果て’とか‘国境’とかいう言葉には何とも哀愁が漂い、旅心を刺激する。確固たる目的など全くなかったが、唯その‘哀愁’のためにアナトリア半島東部の古い町、エルズルムのオトガル(バスターミナル)から、国境の町、ドウバヤズットを目指してバスにのる。トルコを訪れたのは初めてである。しかしイスタンブールをとばして、まず古都エルズルムから旅を始めたところであった。時は1997年6月8日。このところ晴天続きで、初夏の風が頬に心地よい。車はベンツ製の大型バスで、清掃もいきとどいている。景色も起伏に富んだ緑の草原が続き、一番前の座席を確保した甲斐があったというものである。4時間ほどの快適なバスの旅が終り、無事国境の町に着いた・・・ということは確かなのであるが、 実は快適さにはいささか問題があった。
第一はバスの運転である。道幅も広くなく、舗装状態もあまり、というよりは確実に良くないにも関わらず、時速100kmを越す猛スピードでぶっ飛ばす。大型トラックなどど接触せんばかりの近距離ですれ違うときは、ちょっとばかり肝を冷やすことになる。そのうちちょっとどころではなく、猛烈に肝を冷やす場面を目撃した。バスの運転手はエルズルムを出たときから、バスの昇降口に座り込んだ男と盛んに話をしていた。そして出発してから2時間程経ったとき、突然その男と運転を交替したのである。しかもバスの猛スピードに些かの変更も加えることなく。やがて男と運転を交替した運転手殿はゆうゆうとたばこを燻らし始め、また話を続けている。そのうちたばこを吸い終わると、またも同じ光景が展開されたのである。言語を全く解さないので、いかなる理由で交代したのか確たるところはわからないが、その挙動から、「おい、ちょっと一服するから、運転替わってくれや」ということであるように推察した。
もしその間うとうとしていたならば、バスの速度変動を知覚することもなく、目を開けたときには乗車したときの運転手が、相変わらずわきの男と話をしながら運転している光景を確認するだけでったと思われる。これはせっかく快適なバスに乗ったのに、居眠りもせずにいたのが良くなかったと言えるかもしれないのだが。
第二は兵隊による検問である。結構頻繁にある。これは居眠りでは対処できない。検問といっても様々な形態があって、身分証明書やパスポートなどをじっくり見ることもあれば、乗客を1人づつジロジロと見て回るだけの時もある。ただ共通しているのは冷たく、陰気な兵隊の顔つきである。その冷たい視線を全身に受けた途端、もともと意気地のない筆者などは、身がすくんでしまう。街の中で出会う多くのトルコ人は人なつっこく、親切過ぎるくらいに親切なのに、兵隊になるとこれほど変わってしまうのだろうか。バスの窓から見えるのどかな風景は、このような検問とはどう見ても不似合いなのであるが、そのゆるやかな起伏の草原の中に突如、帽子をかぶった人間の首だけが現れてぎょっとすることがある。トーチカのようなところから人間が顔を出したのであろう。なるほどここは紛争地帯なのである。
ドウバヤズットのオトガルに到着し、大きなリュックを担ぎ上げてよたよたとバスを降りたとたん、えらく英語の達者な男につかまった。「これからどこへ行くのか」、「ホテルは決まっているのか」と矢継ぎ早にたたみかけてきた。「これから探すのだ」というと、「いいところを紹介する」と言うなり、荷物を取り上げて休憩所まで運ぶと、ここで待つように言って、またバスのところに戻っていく。どうも同じような旅行者を見つけて、まとめて面倒を見ようという魂胆らしい。旅をしているとこの手の人間には常に遭遇するわけであるが、安全のためには極力係わり合いを持たないようにするのを原則としている。ただ係わり合いを持つことによって、思いがけない効果的な旅になることもあるから、実際には判断が難しい。今回はまさにその後者であった。
ガイド氏はさらに二人の旅行者を捕獲?した。地元の人ばかりと思っていたバスに実は旅行者がさらに二人乗っていたのである。それも若い日本人のカップルであった。旅行の企画などをされており、今回の旅もその情報収集を兼ねているということであった。この日本人4名がガイド氏の今日の獲物、いや快適な旅をサポートしようという対象者となりそうだ。
1人7ドル、いうホテルに連れて行かれた。部屋を見てから決めるということにして、案内された部屋はバス、トイレ付きのなかなかのものであった。何よりも窓から見える、夕暮れのアララット山の眺望は見事である。即座にここに泊まることにする。家内と二人で14ドルである。しかしもう一組の若い日本人は、別のホテルも参考のために見たいということで、ガイド氏とともに町の中に出かけていった。結局他のホテルに決めたようである。おそらく更に条件の良いところがあったものと見える。
それぞれ宿泊が決まると、再度我が宿泊するホテルのロビーに集合してツアーの交渉を行う。この町には定期的な観光ツアーとか、景勝地へ行くバスの便などもないので、観光を行うにはタクシーを頼むか、このような交渉で話を決めるしかないらしい。明日の午前中、イサク・パジャ宮殿、アララット山周辺、ノアの箱船の遺跡、トルコ・イラン国境の検問所、それに隕石穴をまわり、昼食込みで1人25ドルということで話がついた。大半はガイドブックに載っている名所、旧跡である。ただ検問所などというのを入れたのは、いつかトルコからイランへ国境を歩いて渡りたいと考えていたので、その下見をしてみようという魂胆である。されに付け加えれば、隕石穴などがあるということは、その時はじめて気が付いたのである。
これで今夜の宿と明日の予定が決まったので、夕日に染まるドウバヤズットの見物に出かけた。舗装してあるのかどうかよく分からないメインストリートを歩きだす。見物といってもここは大変小さな町で、特に古い町並みとか、めずらしい建物とかいったものはないようで、食料品や雑貨を売る店と屋台が雑然と並ぶメインストリートを、キョロキョロしているうちに、あっというまに町外れに到達した。幾分物足りないところであるが、しかし町外れから見るアララット山の景観はなかなかすばらしいものである。アララットという山のことは話には聞いていた。しかしそれを目の当たりにして、はるばるとずいぶん遠くまで来たものだという実感が沸いてくる。標高5165mのこの山は、いつもてっぺんを雲の帽子で覆っていると言われている。今日も、快晴の天気にもかかわらず、頂上には雲がかかっていた。
翌日もまた良い天気だった。ガイド氏はライトバンで運転手とともにホテルに迎えに来てくれた。我々4人の客が加わり、総勢6人のツアーは9時に出発した。町を出て美しいアララット山の眺望をしばし楽しんだたあとで、連れていってくれたのが、その隕石穴であった。それは起伏のある緑の草原がはるばると広がる中に、ぽつんと存在していた。まわりを見回しても人家はもとより、人っ子1人見かけることもない。かつては柵のようなものを形成していたと思われる、鉄骨の残骸が周囲に部分的に建ち、少し離れて錆びて朽ち果てそうな看板があった。その印象は前号の今月のイメージの一部を再録することにする。
その案内板には次のように書かれていた。
ただクレーターに関して素人の筆者にとって、それはかなり奇妙なものであった。深さが直径の倍近くあるというのも不思議である。大きな井戸のようにも見えるし、戦争で使ったトーチカの跡のようでもあった。もっとも後で人がいじってしまったのか、あるいは偶然ドリルのような形状をした隕石が落下速度方向に平行な軸まわりに程良いスピンでもしていたということも考えられないことはないが。覗けば底がすぐに見えるし、深さ、直径とも、とても案内板の値からはほど遠いのではないかということは確信できた。世界で二番目というのが、大きさを指しているのか、あるいは別のことなのかは不明である。しかし今にも錆びて朽ち果てそうな看板にはなかなかの風情があった。
15分程の短いクレーター見物は、今日のツアーの付録みたいなものであったが、妙に気にかかっていた。それで前回の「今月のイメージ」に書いてみたわけである。この度、長谷川先生から貴重なコメントを頂き、当時のスライドを見ながら回想してみた。なおこの後回った‘ノアの箱船の遺跡’というのも、何とも不思議なものであった。実はこれも大変気にかかっている。科学的側面から一笑に付すということも可能なのであろうが、素直な気持ちであれこれと想いを馳せるのも悪くはない。歴史的に明確な遺跡の探訪とは異なる、これもまた旅の楽しみである。