小惑星の故郷をたずねて

                          田部一志( (株)リブラ )


 小惑星を世界で初めて見つけたのはイタリア・パレルモ天文台長のピアッチである。したがって、小惑星の故郷はシシリー島であるということになるのだが、実はもう1つ真の故郷というべき場所がある。それは北ドイツの寒村リリエンタールである。ブレーメンからはわずか十数kmしか離れていない。ここにはかつてこの町の執政官であったシュレーターの建てた天文台があった。ヨーロッパ一の天体望遠鏡も備えられさまざまな天体観測が行われた。筆者は、18世紀の木星表面の観測記録を求めてこの町を訪問したが、ここが小惑星の故郷であることを再発見した。

1 ティティウス・ボーデの法則

 シュレーターがこの町に赴任してきたのが1781年のことである。この年はくしくもハーシェルによって天王星が発見された年でもある。当時のドイツは神聖ローマ帝国と呼ばれていたが、内部は小さな王国に分かれており、ブレーメン、ハンブルグ等のハンザ同盟都市だけはどこの王国にも所属せず独立を保っていた。一方フランスではナポレオンが実権を握りつつあった。戦争でドイツはライン連邦とプロシアの2ちに分かれたが、ナポレオン敗退後はドイツ連邦となった。
 この頃のドイツの天文学会はハーシェルの見つけた新しい惑星天王星がボーデの法則にかなっていることから、1つ抜けている木星と火星の間にも未発見の惑星があるのではないかということが話題になっていた。当然のごとくこの惑星を探そうという気運が盛り上がった。

2 シュレーターの天文台

 シュレーターの本職はリリエンタールの執政官であったが、同地に施設天文台を建設し、さまざまな天体の観測を行った。月、木星、金星、火星、土星そして彗星などの豊富な観測記録が残されている。リリエンタールから約200km南にゴータという町がある。ゴータの天文台長であったフランツ・ツァハ伯爵が1799年[註1]のある日シュレーターのもとを尋ねた。用件は未知の惑星を発見するための連盟を作ることにあった。ツァハはこれまで15年間も未知の惑星発見のために時間を費やしてきたが徒労に終わっていた。未知の惑星発見の意義を十分に認識していた6人 [註2]の天文学者がリリエンタールに集まって連盟は結成された。日本ではリリエンタール探偵団と呼ばれることもある。6人 [註3]とは、団長のシュレーター、提唱者のツァハ、シュレータの助手のハーディング、ブレーメンの医師オルバース、フォン・エンデ、ギルデメーターといわれている。

3 小惑星の発見

 19世紀が始まったその日1801年1月1日小惑星はシシリー島パレルモ天文台のジュセッペ・ピアッチによって発見された。ピアッチは最初彗星ではないかと疑ったが、この天体は太陽に近づいて観測できなくなってしまった。それを救ったのが、有名な数学者で当時はシュレーターの助手でオルバースにもかわいがられたフリードリッヒ・ガウスであった。ガウスのおかげでこの天体はオルバースによって再発見され、しかもそれが火星と木星の間にあるべき惑星であることが判明したのだった。この天体はシシリー島の守護神の名をとってセレスと名付けられた。ところが、翌1802年にオルバースによって発見された天体は、セレスとほぼ同じような軌道を持つ天体であった。オルバースは考えた。火星と木星の間にはかつて大きな惑星があったが、何らかの理由によって分裂してしまって、今は小さな破片が残っているのではないか?1804年にはリリエンタールのハーディングによって第3の、1807年にはオルバース自身の手によって第4の惑星が発見されるに及んでオルバースの自分の考えに自信を持つようになっていった。
 一方イギリスのハーシェルはセレスが惑星としては異常に小さいこと、同種のものが複数あることを理由にこれは惑星(Planet)ではなく、恒星状天体(Asteroid)と呼ぶべきと主張した。自分の発見した天王星は惑星で、ピアッチ等の発見した天体は恒星のようで恒星でない天体というわけだ。セレスは惑星だと思っていたピアッチは反対したが押し切られてしまい、現在ではAsteroidもしくはMinor Planetと呼ばれているのはご存じの通りである。[註4]

4 現在のリリエンタール

 リリエンタールは現在ではこれといった産業もないさびれた農村である。戦前にはブレーメンとの間に鉄道が敷かれSLが走っていたが、戦後廃止されて交通手段はバスか車に頼らざるを得ない。しかし、ここはシュレーターを初め小惑星発見に功績のあったハーディング、オルバース、ガウスが去来した天文台があった場所でもある。またベッセルもシュレーターの助手であったことがある。そのせいであろう町には天文台通り、ガウス通り、オルバース通り、ベッセル通りなどという地名が残っている。
 現在、シュレーターの天文台のあった場所には望遠鏡の礎石が残されているだけであるが、隣地にはシュレーターとゆかりの人々の遺品を集めた小さな博物館がある。ここにはディエター・ゲルデス(Dieter Gerdes)さんという学芸員が一人でシュレーターの研究を行っていた。(昨年夏訪問した時は非常に元気でいろんな事を1日中説明しまくってくれたが、12月にガンで亡くなったとの知らせを受け驚いている。)ゲルデスさんはシュレーターとこの地での天文活動に関する著書を4冊著わしているが、さらに書く予定だと話していたので残念である。そういうわけでリリエンタールこそが小惑星の真の故郷と思うに至った次第である。


[1]この年を1780年とするもの、1781年とするものがあるが、Hoskin(1995)にしたがって1799年とした。

[2]5人とする説もある。

[3]6人にボーデを加える説や、オルバースを加えない説などがあり真実はわからない。

[4]最近冥王星を惑星から外そうという動きが出ている。その軌道、物理的特徴から考えると惑星というよりエッジワース=カイパーベルト天体第1号としようというわけである。発見者のトンボーは死ぬまで自分の発見した天体は惑星であると思っていただろうから、意見を聞くことができないのが残念である。


図-1 リリエンタール探偵団(塚田洋子画)


図-2 ガウス通りの看板


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