ちょんまげ頭で見た天体(第5回)

       時は幕末・天文に興味を抱いた鉄砲鍛冶、

             一貫斎国友藤兵衛の天体望遠鏡

                      渡辺 文雄(上田市教育委員会)


 国友望遠鏡調査記も今回で5回目を迎えるが、ようやく一応の光学調査が終わったところまで話が進んだ段階である。前号では、国立天文台の自記分光光度計での測定結果についてお話ししてきた。今回はこの調査で最も関心を持っている「160年以上経過している金属鏡がなぜ錆びないのか!!」について核心に触れることができるのかどうか・・・が問われる金属鏡の表面分析について、昨年京都大学大学院・エネルギー基礎科学科の富井氏の協力を得て行われた結果について報告しようと思う。

 この京大での分析のために、光学調査と2日間の国立天文台職員のために展示された国友望遠鏡を引き取り、翌週の月曜日には京都大学に望遠鏡を運ぶため、またしても11月21日(金)には国立天文台へと向かった次第である。もちろん日帰りでも良かったのではあるが、やはり大切なものを運ぶのに過労は避けたいがため、1日休暇を取って前日午後には天文台に到着した。私が着いた時間にはまだ本館会議室で望遠鏡の展示をしている時間であったため覗いて見ると、中村 士氏の手によって2日間の利用では勿体ないほど奇麗に作られた資料とともに展示されていた。国友望遠鏡の脇には、京大の富田氏によって製作されたレプリカも展示され、そちらは数名の方が覗きながら何やら喋っている。展示会場は中村氏と、歴計算室の伊藤氏が中心になって、管理、解説をしてくださったようである。同じ展示会場には歴計算室の伊藤節子氏の撮影された、天文台内の野草の写真が展示されていた。京大の富田氏は大宇田観測所内の野草をかなり撮影されているし、天文学者は絵心の有る人が多いのかなと感じながら、特に伊藤氏がそのような写真を撮影されていたことを始めて知ったため意外な一面を見せていただいたな感じであった。
 さて、この夜は天文台内のコスモス会館の予約が取れていたため、本館から2分ほどの宿舎でゆっくり眠った。自宅にいると本が目についたり、メールを見たり返事を書いたりと私の場合は全て夜に集中する。したがって結構夜もなんやかやと余りじっとしていない方であるが、今夜はビジネスホテルの一室、眠ること以外とくにすることが無い・・。そのような環境のためにゆっくり眠れると言うわけである・・・。
 翌日は、10頃に来られた中村氏といっしょに私の車に望遠鏡を積み込み、22日のうちにいったん博物館に返却するため帰途についた。
 日曜日を丸一日上田で過ごし、24日(月曜日)の朝再び市立博物館に行き望遠鏡を積み込み、今度は京大に出かけることになる。博物館長に渡辺さんの車を壊しても望遠鏡は無事なように等と冗談を言われながら上田を出発、諏訪から中央道に出て一路京都への途についた。
中央道は高速にしてはいつも比較的空いているため、ほぼ予定時間で走れる。右の窓越しに見える駒ヶ岳は裾のほうはまだ晩秋の装いを残し、千畳敷カールあたりは雪が来て、もう冬の装いである。
 正直なところ、一週間位の間に、三鷹へ2往復・更に京都へと両方に行くというのはちょっと欲張ってしまったかな・・?、等と言う思いが脳裏をかすめる。先月は大阪の科学館に行くために、前日仕事が終わってから車で京都まで行き、一泊して翌日、富田氏と一緒に国友望遠鏡のフーコテストをしてくださった日本特殊光機の中村氏を訪ねた。その足で午後は科学館そして京都に戻って一泊、その翌日は信楽の京都大学超高層物理研究所へ。結局あちこち歩いていながら観光旅行って言うのはしたことがないな〜。とは言っても結局は自分の蒔いた種なのです・・・。そんなことを考えながら、恵那山トンネルを通過、上田から3時間ほど走り恵那サービスエリアで昼食を取り小休止。この辺りはまだ紅葉が見ごろ、南北に長く標高差の大きさを実感するのもこんな時かもしれない。もう名古屋までは1時間位、名古屋から1時間半くらいかな?・・等と計算しながら再び走り始める。
 結局京都に着いたのは15頃であった。山科から京阪電鉄にそって御陵をぬけ蹴上に出た辺りは車がつながり、道路が一寸ずりである。そう、この頃の京都は紅葉の真っ盛り・・だったのでした。京都の紅葉の季節には何処から湧いてきたか、と思われる程の人と車の大渋滞が数週間も続くことを思い出したのですが、その時はもう渋滞のど真ん中・・・。普通に走れれば京大までわずか15分位の所を3倍位かかって、ようやく富田氏の待つ理学部に到着。早速望遠鏡を富田氏の宇宙物理学教室に運び、ロッカーに一旦納めてほっと一息である。
 そこで先ず富田氏から明日の予定について説明を聞きながら打ち合わせをする。10月に来た時に表面分析の測定器についても説明を受けていたが、再度確認。念のため鏡面の比較的問題のない周辺部分で分析を行うこと、また数ミクロン平方の部分で分析が十分可能なことから、走査型電子顕微鏡(SEM)の機能を生かして測定部分を確認しながら慎重に事を進めよう、と言うところで翌日を待つことにした。分析をしてくださる富井氏は都合で今日は会えないため、富田氏と教室をあとにして夕食に出た。
 今回の京都での宿舎は、富田氏の用意してくださった京都大学の清風荘である、まだ新しい建物で今出川通に面し、大学から歩いても10分くらいの便利な宿舎であった。夕食のあと富田氏と別れて宿舎に帰ったのは21頃だったろうか? ベッドに腰掛けて資料に目をとおしていた筈であるが、いつの間にか眠ってまったらしい・・・。寒くなって目が覚めてみるともう明け方の4:00であるが、もう一度今度は眠る気になってベッドに入った。7:00に目覚ましの音で目が覚めるまでしっかり3時間位は眠ったことになる、仕事に行く朝よりも快調である・・・。休日の朝の子供のようなもの・・?
 今日は9:00に富田氏の研究室に集合することになっているのでゆっくりシャワーを浴びて目を覚ます、宿舎では食事がないので、理学部まで車を置きに行き、歩いて百万遍交差点側に戻りながら途中の軽食喫茶で朝食をとる。今日はまた報道関係者も数社からみえるようであるし、また賑やかな一日になるのかな、等と考えながら研究室にもどる。宇宙物理学教室のある建物は6階の屋上に銀色のドームが2基建っていて、初めての人にもわかりやすいため、今日の参加者は富田氏の研究室に集合することになっている。
 富田・松田両氏と今日のホスト役の富井氏・堺鉄砲研究会の澤田氏、そして私の5名が揃ったところで本部構内の元冶金学教室の建物に向かう。一階の粒子線応用分析室では分析装置を操作してくださる畦崎輝義・中川勇両氏がすでに準備を終えて待っていてくださった。今回の鏡の分析に用いるのはElectron Probe Micro Analysis (EPMA)装置、一般的にX線マイクロアナライザと呼ばれている装置でHITACHI X-650である。レンズの分析は蛍光X線分析装置を使うことになっている。もちろんレンズもEPMAで良いのであるが、金属でcalibrationを取っているため、蛍光X線の方が良いということになったようである。早速手順について打ち合わせを行い、望遠鏡を再度分解して、まず副鏡と副鏡に使われている鉄製の光軸調整ネジについて分析をおこなうことになった。真空を引くのに手間取るかもしれない主鏡は後回しにした。金属製のサンプル台に、望遠鏡から取り外した副鏡と、その反対側に鉄製のネジをのせて分析装置に納め、真空引きが始まった。この分析装置は原子レベルの分析を行うために高真空が必要と言うことで、常圧になったチャンバー内を真空にするために30分近くの時間を要する。鏡面に影響を与えないように照射電流を押さえて、かつ鏡の縁の部分で分析を行った(測定条件:加速電圧15KV・照射電流100pA・電子線照射角度90度・特性X線取り込み時間200sec・特性X線取りだし角度38度)。この装置は前述したように走査型電子顕微鏡(SEM)としての機能を持っているため、各部の電子顕微鏡写真も沢山撮影してもらった。
 まず、鉄製のネジの分析結果がモニターにカラー表示され始めた、装置を操作していた畦崎氏がまず、これ本当に江戸時代のネジなの?と言う。説明を聞くと非常に純度の高い純鉄と呼ばれるものに近いらしい、おまけにネジの山がきれいに揃っていて、数10倍の顕微鏡写真のモニターで見るとバイトで削ったかのような刃物の傷らしき後が残っているようだ。しかしこのような純度の高い鉄は現在でも入手困難で、法隆寺の復元修理の際に1000年錆びない古代釘を復元するために製鉄会社に特別注文で作ってもらった、と言う話が新聞に掲載されたのを読んだ記憶はある。それを裏付けるかのように、松田氏の話が続く・・・。鉄は何度も折重ねて鍛造を繰り返すと、次第に不純物が叩出されていくそうである。日本刀の製鉄の技術もこの方法によっているとか・・そうこうしているうちに、長野放送の義家記者とカメラマン3名も到着して早速分析の様子などを撮影しはじめた。この頃から少しずつ人数も増えて結局20人に近い人が、固唾をのんで見守る中で分析が行われると言う、緊張した雰囲気が、研究室に満ちてきた。いよいよ副鏡の分析にかかるためにSEMのモニターに鏡面の像が出された。やはり上田で光学顕微鏡で観察した時と同じ研磨傷だらけの鏡面が見えるが、今回は1000倍であるのと、鏡面をいためないように鏡の周辺の面取りした部分を見ているため最終の研磨もされていないようである。分析結果がモニターにカラー表示され始める。畦崎氏の説明が続く・・・。2箇所の平均値で銅65%に対して錫35%くらいである。この数値で藤兵衛の望遠鏡製作記録にある最終的な合金比率が確認されたことになるが、結果的に藤兵衛の記録の正確さと、仕事の緻密さをも証明されたことになる。ここまでで、一応午前の測定を終了した。午後はこの調査最大の山場である主鏡の分析に取りかかる。
 主鏡は口径62mm もあるために、研究室にあるような分析装置では、サンプルチャンバーに対してサンプルが大きすぎて入らない(普通はこのような装置で分析するサンプルは5mm平方程度である)。そのためにメンバーで金属が専門の松田氏に八方手を尽くしていただいたが、こちらで希望するような測定器がない。結局松田氏の出身研究室の同期である富井氏を口説いて、分析装置の真空を破って機械の一部を分解し、62mmの主鏡をサンプル室に入れた後、装置を組み立て直して真空引きを行う、と言うことでようやく分析が可能になった、と言ういわくつきの分析である。富井氏・畦崎氏にはかなり無理を聞いていただいたことに感謝している。
 さらに、分解してとり出した主鏡を見て、富井氏が弱ったな〜という。主鏡の周辺にニカワで固めたように和紙が巻付けられているのである。これは主鏡と筒のガタをなくすために細工したものらしいが、このまま装置に格納して真空引きを行うと、この紙から揮発性ガスが次々と発生して真空度が上がらないかもしれない。ということになると分析不可能であるが、まあ、とにかくやってみようと言うことになって真空ポンプが働きだした。どうやら分析可能な真空度に達し結果が出せそうである。モニターに写った鏡面はやはりかなりの研磨痕が残っている、主鏡も芯穴付近と外周付近で適当な測定スポットを探してもらう。芯穴付近できれいな研磨面があり、合金の組織状態も見れそうである。50倍位では石コロや、水の流れたような後が見える。かすかにサブミクロンオーダーの亀裂も見えている。流痕模様の部分を200倍まで上げてもらうと、流れた模様のように見えたのは、状態の異なる合金が隣接しているためのようである(写真2)。

モニターのハードコピーで白っぽく見えるところが100μm×30μm位の領域が方向を揃えて並んでいて、その間を幅20μm位の灰色の帯状の領域が埋めている。分析結果では白っぽい部分が銅60%・錫40%、灰色の部分は銅66%・錫34%となった。この数字は、分析面がビームに対して直角であると仮定して、元素の基準データによってフイッテイング処理した結果で、この値には数%の誤差を含む可能性がある。ここまでで、主鏡の最終的な合金比が確認され、副鏡同様、藤兵衛の望遠鏡製作日誌に記録された合金比が初めて証明された、と言う訳である。研究室には、長野放送・京都新聞・朝日新聞・科学誌の記者等が取材に来ている。これらの記者の方々に測定の様子と結果を説明しつつ、得られたデータを見て次の測定について議論しながら決定するという、あわただしいが充実した研究作業の進行である。
富井・松田両氏の意見交換の結果、金属間化合物ε相・δ相の入り交じった状態であるとの結論であるが、錆びない理由については更に検討が必要である。金属間化合物の耐食性、国友鏡が錆びない理由等については、今現在も本当の理由を探るための手だてが進んでいるが、次号でもう少しそのあたりまでお話ししたいと考えている。       

                             (次号につづく)


写真1 光軸調整ネジ


写真2 主鏡の電子顕微鏡写真


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