ちょんまげ頭で見た天体
時は幕末・天文に興味を抱いた鉄砲鍛冶、
一貫斎国友藤兵衛の天体望遠鏡
[エピローグ]
渡辺文雄(上田市教育委員会)
全7回にわたって連載となってしまった「江戸時代に作られた国産初の反射望遠鏡調査報告」も今回でひと区切りとしてまとめておきたい。この連載を始めた「あすてろいど21 号」には、NASDAの歌島氏が、「L4点スペースガード宇宙望遠鏡からのNEO観測シミュレーション」のまとめを掲載されているし、会長の磯部氏が「スペースウオッチ望遠鏡・米国 キットピーク山」の関係記事を掲載されている。一貫斎が望遠鏡の製作に着手した年から166年後の年である、さすがの一貫斎もこの我々の住んでいる星に他の天体が衝突するとは考えてもいなかったろう、そして今年ファーストライトを迎えた「すばる」と一貫斎の望遠鏡との主鏡の面積比は約18.000倍である。現代の科学が彼等先人の業績を基礎として成立していることを思うとき、技術者であり、科学者としての一面も持った一貫斎という人物の業績について再評価する必要があるかもしれない、というのが調査を終了しての感想であり、今回の調査がその一端を担えれば幸いであると考えている。 この調査は1997年7月の第一回目から、1998年3月12日の大阪市立博物館での調査までで一応のまとめとして、昨年8月には上田市においてこの調査報告会を行ない区切りとした。上田市立博物館への調査に関わる申請の最初から数えると約2年の時間がかかったことになるが、この間私自身今までまったくお付き合いのなかった多くの方との交流が生まれたり、自分の経験のある学問の世界以外の未知の分野にも触れることができたことに深く感謝している。前号までで、望遠鏡本体の調査結果については既に記述してきたので、今回はタイトルの「ちょんまげ頭で見た天体」について少し触れ、我々の調査チームが今後どんなことを計画しているのかについて若干述べて終了としたい。
さらに以前にも触れているが、太陽黒点の観測を一年以上に渡って行なっている。日本で最初の太陽黒点の連続観測は天保六年正月六日から七年二月八日( 1835年2月3日〜1836年3月24日)の期間である。この間に158日間のスケッチが残されている。このことについては、神田茂氏の「天保年間国友氏製作の反射望遠鏡と太陽黒点の観測」の中で詳細に述べられている。今回改めて一貫斎による観測の質がどの程度のものであったのか評価するために、久保田諄氏(大阪経済大学)によって再びそのスケッチから黒点相対数を推定し、既に求められているヨーロッパのデーターと比較した。長浜市教育委員会に保管されているマイクロフィルムからの複写写真を使って、一日毎の黒点相対数を推算した。毛筆でスケッチしたためであろうが、黒点の暗部と半暗部を区別して書かれていない。スケッチは現在の我々がやるように、望遠鏡を使って白紙の上に太陽像を投影しながら書いたものでなく、望遠鏡を眼で覗いて、眼分量黒点の位置を決めながらおこなっているため、それぞれの黒点の位置精度は良くないが、黒点相対数の推算は十分に可能なスケッチである(久保田諄氏による)。
また偶然にも、この一貫斎の観測期間は新しい太陽活動のサイクルに入って黒点相対数の急激な増加傾向の時期であったことなどを考慮しながら、検討した結果、先に神田氏が求めた値と比較すると、群の数がかなり食い違っている日があるが、このことは群の判定の基準が異なっているためであろうという。Waldmeiers がヨーロッパに残されていた過去のスケッチから求め、最近 Letfus が新発見のデーターを補い修正を施した同じ時期の黒点相対数をチューリッヒ黒点相対数の標準の値とすれば、一貫斎の太陽黒点観測はかなり忠実に行なわれたものというのが、再評価の結論である。一方、一貫斎の惑星のスケッチを先に評価した山本一清氏によれば観測された同時期の金星、木星、土星の各位置を計算の上、そのスケッチに書かれた大きさを比較すると、その大きさの比率は非常に正確であると評価している。さらに土星のスケッチでは左側に衛星タイタンを書いているが、これはおそらく初めて土星の衛星を見た日本人である可能性を示唆している。それまで歴学中心の日本の天文学に対して、一貫斎がまったく別な見地から天文学に取り組んだと考えれば、長浜市教育委員会が一貫斎家に立てている紹介の立て看板に「日本の天文学発祥の地」と記述していることも、あながち否定できない要素も持っているという見方は評価が高すぎるだろうか?。
まとめ 今回我々の調査であきらかになった事項をまとめると、 以上述べてきたように紆余曲折を経ながらも我々の調査は一応の区切りがついた。今にして思えば上田市立博物館もよく調査を許可していただけたと思うし、他の関係機関や関係する方々にもいろいろと便宜をはかっていただいたこと感謝している。その後、滋賀県長浜市も国友一貫斎を掘り起こそうとしているとも聞いている。勿論我々の調査以前からの構想では有ろうと思うが、現存する国友望遠鏡のうち3台は生まれ故郷の滋賀県に揃ったわけで、長浜城歴史博物館の所蔵する望遠鏡についても光学的な調査が今年始めに京大の富田氏と、望遠鏡メーカーの中村氏によって行われた。さらにダイニックアストロパークが命名権を持っていた小惑星に「国友一貫斎」と命名されて、長浜市に寄贈?されたという話しも聞いている。われわれの今後の計画として現代の技術で「国友望遠鏡の青銅鏡」を再現してみたい、それはまとめの(3)で述べている反射鏡が曇らない理由が本当にそうなのかどうか?、この考え方にはかなり推測の部分もあるためそれを実証するためには同じ材質で大気腐食、液体腐食等の実験を行なう必要がどうしても欠かせない。まさか本物を使う訳には行かないのでそのための実験材料を作ることから始めなければならないし、レンズについても「旧クラウンガラス」は非常に粘土があって製作しにくいガラスであるといわれている、輸入品を使ったのか?一貫斎自身が溶解から製作したものかの検証も行ないたい。次々と欲が出てのめり込んで行く。金属鏡の実験材料は既に協力していただいている大阪の非鉄金属メーカーで鋳造が始まっている。これができ上がって来るころまでにはその試験方法も確立しなければならない。最後に京大の富田氏が実験的に国友望遠鏡のレンズと同じ成分で作ったガラスをレンズに磨いている様子をメールの一部から紹介しておわりとしたい。 「レプリカ・レンズの研磨、視野レンズの両面を荒摺したサンプルが出来上がったところまでは前メールでお知らせしました。その後、溶かしたピッチを鉄皿に流し込んで凸面の鉄皿を押し付けて凹面のピッチ皿をつくりそれを用いて仕上げの艶出し磨きを行いました艶出しには、酸化セリウムの微粉を使用していまが、一貫斎は「べんがら」(酸化鉄)を用いています。ガラスの場合には酸化クロームでも良いそうです。ピッチ面には研磨液が逃げるように5mm間隔くらいの網目のをナイフで掘ってやりました。2000番の砂面から一気に艶出し研磨に移りましたので砂面が透明な面になるのに半日くらいかかります。今日の所は1面だけ艶出しを完成させました。荒い砂の傷が残らないように砂を変えるときに細心の注意を払って作業をしましたので、大変綺麗な面に仕上がりました。研磨作業って結構面白いですね。とくに最後の艶出し磨きのところで砂面が次第に晴れがって透明になっていくのがなんとも嬉しいものです。」 |
27号の目次/あすてろいどHP