獅子の雄叫びを聴け
〜1998-1999年しし座流星雨〜
矢野 創(文部省宇宙科学研究所)
流星群とは? しし座流星群は、1998年2月末のように33.2年毎に太陽に最接近(回帰)する短周期彗星、テンペル・タットル彗星から放出された塵(ちり)が密集した「ダストチューブ」の中を、毎年11月半ばに地球が通過する際に、塵粒子が地球大気と衝突して発光するために起きます。見かけ上しし座の一角からシャワーのように飛び出してくるこの流星群は、西暦902年に中国の古文書に初めて記録されて以来、母彗星が回帰する前後数年間に限って、肉眼で見える流星が一時間当り「数百」も流れる「流星雨」や、数万以上にも上る「流星嵐」をたびたび引き起こしてきました。 航空機ミッション 私は過去2年間、NASAが主催する国際航空機観測ミッション(Leonid MAC, http://leonid.arc.nasa.gov
)に参加して、米国空軍の科学観測用ジェット航空機に観測機材を積み込んで、1998年には沖縄上空高度約12kmから、1999年には中東〜地中海〜大西洋上空から、しし群の流れ星を追いかけてきました(図1)。
ハイビジョンの威力 このミッションは各個人に自由な観測をばらばらに行わせるのではなく、それぞれの得意分野や最新機器を持ち寄って、総合的に流星群を理解するのが目標です。そこで日本からの参加者には私のほかに、98年にはしし群のダストチューブによる太陽の散乱光のわずかな増加を捕らえて、世界で初めてダストチューブの断面を測定しようとして神戸大学の研究者が、99年にはグリズムと呼ばれる精密な分光ができる装置を使って流星発光の元となる彗星起源の塵の材料を細かく調べようとする国立天文台・総合研究大学院大学の研究者が、搭乗しました。 1998年しし群:予測通りの遭遇と予想外の突発ピーク 1998年のしし群は、人類が人工衛星を使った地上生活へのサービスを本格的に行うようになったり、惑星探査機でハレー彗星など、流星の故郷である彗星のその場観測を初めてから最初の大出現の機会でした。そのため、世界各国の宇宙機関、民間・軍事双方の衛星運用団体、そして太陽系科学の研究者達の大きな関心を集めたのです。信用できる研究者は誰でも、過去の観測記録と彗星の軌道モデルから、この年に流星雨が起こる可能性は5割程度で、起きたとしても一時間当り数百から数千程度の割合、と見積もっていました。これは1分あたり数個から数十個見える勘定です。ところが日本のメディアでは「雨の様に流れ星が降る」という過剰な報道が繰り返し流され、極大当日には一種の社会現象にまで発展しました。 1999年しし群:新しい理論でリベンジ しかし自然は、予期しなかった現象の中にこそ、その秘密を解く鍵を隠し持っていることがあります。98年の突発ピークによって、従来の流星群発生モデルの不完全さが露呈しました。それまでのモデルは、地球軌道と交差するときに流星群を起こすダストチューブは最も新しい母彗星の軌道が一番濃く、そこから遠ざかるにつれてどの方向でも塵の空間密度が減少するという単純な仮定に基づいていました。そのため、予測精度は1日程度であり、出現規模も研究者によって1−2桁のばらつきがあったのです。 獅子の咆哮 1999年11月13日にカリフォルニア州モハベ砂漠にあるエドワーズ空軍基地から航路を東に取って出発したLeonid
MACミッションは、給油と整備と夜間試験飛行を繰り返した後、ついに16日から3日連続の観測飛行を英国からイスラエルまでの航路を皮切りに始めました。初日にはすでにおうし座流星群が活発に出ており、しし群も前年のピーク前程度の緩やかな高まりの中にあるようでした。160km離れて並行に編隊飛行している二機の観測機の位置をGPSで確認したり無線で通信しながら、空中での三角測量による流星の同時観測も成功させました(図2)。ハイビジョンの前に分光器を取りつけた観測も上々で、後はピークを待つのみでした。
翌17日深夜。テル・アビブから離陸して最初の一時間は、イスラエルの地上レーダー観測チームと同時観測を行うために上空を旋回しました。その後、一路地中海上を西に向かって飛行しました。ジブラルタル海峡を超えて大西洋上の小島・アゾレス島まで一気に7時間以上飛行するコースを選んだのは、西へ西へと飛び、少しでも日の出を遅らせて観測時間を延ばすためです。世界標準時で18日午前1時40分過ぎ、急激に流星数が増えてきました。二機のうち広角レンズが装着できるハイビジョンに28mmのレンズをつけたところ、映し出されたモニターの映像は、地平線上空の雲に向かって北東の上空から次々と光の矢が放たれているようでした(図3)。この映像や出現数の統計データは、衛星通信を使ってインターネット上でライブ放送されました(図4)。そのため、流星観測用ビデオカメラに繋がった、ロボコップのようなヘッドマウント・ディスプレイを頭部に装着したアマチュア天文家達が、マウスの左右クリックで しし群流星と散在流星を区別して同時自動集計するという「日本野鳥の会」顔負けのシステムが導入されました。しかしさすがの彼らも極大期には、ハイビジョンカメラが映し出す流星の数があまりに多すぎて指の反射神経が追いつかずに、計測不能になったのです。一瞬で数回、1分で150回以上(1時間換算で1万回)ものクリックができる「北○の拳」のような打撃の名手は、そうそういません。
その出現数ピークは細かい上下が複数あったものの、18日午前2時頃で、まさにアッシャーらの予報通りでした。ピーク時には瞬きをする間に数個の流星がしし座の顔の方角から飛んでくる様はまさに、風になびく金色の鬣(たてがみ)を持った獅子の、力強い雄叫びを彷彿とさせました。また、私は忙しく計数観測やビデオの制御をしていましたが(図5)、カメラを調整する際に窓越しに直接覗いたその光景で、まるで自分が、今より多くの隕石や宇宙塵がぶ厚い大気に降り注いでいた、40億年以上も前の原始地球にタイムスリップしたのではないかという錯覚に襲われました。そして華やかな火球も含め、その一部始終を捉えたハイビジョンの映像は、もはや研究者の単なる所有物を超えて、人類全体の知的財産として後世に残さなくてはいけないな、と強く思いました(6a,b)。
その後、流星雨は急速に収まっていき、観測を終えた5時頃にはすでに前日並みの出現規模にまで落ちていました。三日目の観測では突発ピークもなく、アッシャーらのモデルの有効性を確認する結果となりました。今回のしし群観測には、雲の上から予測されたピークを確実に捕らえられる航空機ミッションが最も優れていたことは間違いないでしょう。そしてその成果は、例えば微光流星のちらばり具合とアッシャー理論の整合性の評価や、生命の素である有機物が流れ星として地球にもたらされたなど、これからしばらくの間、例えば1986年のハレー探査が彗星科学にもたらした「革命」に匹敵するような新発見が、次々と報告されることになると思います。その第一弾はこの4月にイスラエルで開かれる国際会議で発表されます。 予言から予報へ アッシャーらの理論の正しさについて結論を出すには、今後も数年間慎重な観測を続ける必要があります。しかし1999年の観測から判断できる範囲では、かなり有力になったのではないかと思います。勿論、地中海上空でわずか数分の誤差で予測時刻通りに、ちょうど100年前の1899年に放出された塵雲の傍を地球がかすめた時にピークが出たことは重要です。しかし私は、数時間ほどアッシャーらの予測時間はずれていたものの、日本時間の19日明け方にも別の緩やかなピークが出たことも、とても価値ある事実だと思います。なぜなら、この2番目のピークは1998年の突発的なピーク同様に、従来の予測方法では全く分からないピークだったからです。
さあ、皆さんはどうされますか?日食ツアーや彗星観測ツアーがあるのですから、航空会社と旅行代理店が協力して、極大期が期待される地点を夜間飛行してキャビンを真っ暗にするしし座流星群ツアーだって企画されても良いのではないでしょうか?科学観測では観測窓の材質や視野の角度などに厳しい条件がつきますが、一般の方やアマチュア天文家が眺めて楽しむレベルなら、十分に成り立つアイディアではないでしょうか? エピローグ:流れ星の贈り物 今年のしし群も月明かりが明るいので、科学観測には向きません。しかし、11月の晴天率の悪さを克服できれば、火球や流星痕など、しし群ならではの明るい現象を幾つか楽しむ程度なら、期待して良いのではないかと思います。2001年の観測計画については、4月のイスラエルでの会議で検討しますが、私は今年くらい、海岸に寝転がってホットワインでも飲みながら、仲間と眺めてみたいなと、思っています。 実は、私の誕生日は8月のペルセウス座流星群の極大日です。ですから、子供の頃から毎年、夜中に流れ星を数えながら年齢を重ねることが習慣になっていました。もしかするとそんなちょっとした幸運が、私を現在の太陽系科学の研究に駆り立てたのかも知れません。そう考えると、今回の流星雨がもたらした最大の恩恵は、ヨーロッパ・中近東に将来の惑星科学者の卵をたくさん産み落としていったことでしょう。来年には、日本の子供達にもそんな贈り物が星空から届くことを祈っています。 |
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