夏の昼の夢
北 沢 のどか/JONA(挿絵)
ふと目が覚めると、雨が激しく窓を打ち、ガラスに水滴が無数の線を描いていた。雷鳴に恐れをなして、犬が激しく吠えている。先ほどまではあんなに良い天気だったのに。窓ガラスは閉めておいたはずだけど、わずかな隙間から水分が部屋に進入したらしい。伸ばした手に触れた、読みかけの本がしっとりとしている。何の本を読んでいたんだっけ。明晰なはずの私の頭を、瞬く間に睡魔に手に渡した犯人。そう、ジョン・レスリー著「世界の終焉」。人類が直面するさまざまな危機と、人類を滅亡に導く論理を一つ、一つ検証するという、恐ろしい本。一般向けに書かれているとはいえ、著者は哲学者。三歩進んで二歩下がる。ページを逆にめくることが多く、なかなか先に進まない。眠りにおちるのを手助けしてくれるけれど、眠った後に副作用を伴うらしい。 何を考えながら眠ってしまったのか、よく覚えていないけど、意識の確かなうちは、次のような連想をしていたような気がする。すぐ体調を崩す私が、いつも考えることだけど。 私たちは、例えば頭痛が長引いたりして、家庭用医学書などをひもときはじめると、実にさまざまな病気の可能性に直面し、絶望的になる。結局は、くよくよ考えたってしょうがない、気晴らしに美味しいものでも食べに行こう、などという結論に達するのが常である。しかし、これは問題を解決したとは言い難く、言い方を変えれば、事態を回避したわけである。「楽天的でいることが長生きの秘訣」などと、ほがらかに宣言される方も多い。なるほど、そうかも知れない。しかし、これはモットーであって、別に論理的裏付けがあるとは思えない。病は気から、とはよくいわれることで、経験的にもうなずける。しかし、気力で簡単に克服できないこともある。そして、人間の心はうつろいやすい。いつ何時、またまた家庭医学書をひもとき、絶望に打ちひしがれることになるかわからない。 それは別として、もし、この作業を何とか行うことができ、しかも、自分は当面、重大な病気にかかることがない、という自信がついたら、明るい未来が広がる。ニコニコしながら、颯爽と街を歩くのだ、となるはずだけど、こういうときに必ず頭に浮かんでくるのが、Yさんの顔。「元気で、長生きできればいいってわけだ」と必ず皮肉な笑いをうかべながら、言うに違いない。 「長生きする人もいれば、短命の人もいる。だから自然界のバランスがとれている。」というような、崇高な見解を持っておられる方も、世間には少なくない。Yさんもその一人なのだ。自分の置かれた立場を、いつも客観的に見つめる、それが社会人としての基本。学校で教わったことに忠実な私にとって、これは大変説得力のある見方で、心を動かされる。確かに、人類の大半が100歳まで生きることになったら、地球上はどうなるのかしら・・・。 いやいや、別の考え方もある。人の自殺などに関したニュースのコメントによく見られる、「この世に生を受けたからには、生きていくということが一番大切」というご意見。そうだわ、私も体を大事にして長生きしなくては。私が死んだら、両親や兄妹、それに友達だって悲しむ。生きていなかったら、何もはじまらない。しかし、そうしたら地球の人口問題はどうするの。だんだん混乱してきた。長引く頭痛に悩む私としては、どうしたらいいのかしら。 「私が長生きすることは良いことであり、私は長生きするべきなのだ。Yさんの考え方は正しくない。なぜなら、・・・。」そう、この「・・・」を高らかに宣言できたら問題ないのだ。しかし、私の長生きに疑問を呈する考え方はYさんのものだけではない。それを片っ端から拾い出して、論破できればいいのだ。今度は哲学者にならないと、無理かしら。 こんなことを考えていたのでは、快眠にはつながらない。でも、もう少しこの問題を考えないと、悪夢が続くことになりそう。そのために、レスリーさんの本を読もうとしたはずだった。上の思考過程は、レスリーさんの本に沿っているものだけど、ただ、この本で対象としているのは人類全体。 この本に取り上げられている「人類の生存に対する脅威」がすごい。列記すると次のようになる。 すでによく認識されている危険 認識されていないことが多い危険 (人間が起こす災害) これは、頭痛で家庭医学書をひもといたのと同じ。項目だけ見ても、何か荒唐無稽としか思えないものもあるけど、その幾つかは、直ちに対策を講じないと、いつ風雲急を告げる、ということにならないとも限らない、という恐怖感にかられる。しかも、自然災害にしても人間の起こす災害にしても、これから気が付くものにどんなものがあるのか、恐ろしい。今問題になっている危険のかなりの部分は、数十年前には想像もしていなかったことだから。それにしても、人類は生き延びるために、こんなに多くの困難な問題と苦闘し、やがて登場するかも知れない、さらに強力な危険に恐れおののいていかなければならないとは。 ともかく少し冷静になって、これらをどのように評価するのか。当然、確率的プロセスが導入されるわけだけど、しかし、これを客観的に行うことは、とても簡単とは思えない。また、危険にたいする対処にしても、ある一つの危険を除去することが、別の危険の増大を助長したり、新しい危険を生んだりするという、個々の危険の間の、極めて複雑な干渉が考えられる。 レスリーさんは、「人類は生き延びるべきである」、という立場である。そこで、 まず、「人間の滅亡は災厄であって、その可能性がどんなものであれ、わずかだろうと高かろうと、それについては警告を受けるべきだ」という立場から、これらの危機を選び出している。次にそれらの危険分析をどう進めるかを考えているが、しかし、それだけでは十分ではない。なぜなら、哲学的諸説では、「人類は末永く生存すべきだ」という考え方が、必ずしも主流ではないらしい。しかも、これは上に列挙した沢山の危険をすべて凌ぐ、大変な危険になりかねない。従って、「人類を生存させる倫理的な必要性が実在することを疑問視するような」さまざまな学説を、これまたはじから取り上げ、論破する必要があるというわけ。 はじめ、この本を読むと、「人類は生き延びるべきである」という信念を確たるものにする、論理的根拠が明確になると期待していた。でも、考えて見ればこれは宗教的啓蒙書ではない。レスリーさんは方法論は提供するけど、自分の信念を啓蒙しようなどということを目論んだりしていない。学問の書なのよね。 人間はさまざまな考えを持っていてしかるべきだ、とすれば、「人類は生き延びるべきではない」、あるいは「生き延びる必要はない」という信念を持っている人間がいても当然である。信念というのが、各自の思考の結果であるとすれば、信念の違いは、結論の違いになる。異なった結論を持っている人間を、人類という範疇で許容するとしたら、共有できるものは何になるのだろう。「思考のプロセス」? 「思考のプロセス」を共有するってどういうことかしら。自分の信念と異なる信念を持つ人間に出会ったとき、自分の持っていた信念を今後も継続して堅持すべきである、という結論はどのようにして得られるのだろう。しかも、その信念、例えば「人類は生き延びるべきである」という信念を堅持するためには、「生き延びる必要がない」という考えに、どのように対処すべきなのか。 問題の複雑さに、ただただ圧倒され、絶望的になった。列挙されたものを見るだけで気が遠くなるような危険が山積し、しかもそれらの危険にさらされている人間の間にコンセンサスもない。とうとう最後には、「人類は生き延びるべきだけど、そう長くは生き延びられない」と観念したら、とても気が楽になった。それにしても、認識されていないことが多い危険の中であげられている、巨大な火山爆発、小惑星や彗星の衝突など、自然の災害がもたらす危険への対処について、特に信念が分かれてきそう。「恐竜が滅びたので、哺乳類の繁栄がもたらされ、その結果、人類も誕生した。自然の摂理に逆らうべきではない。」というYさんにどう反論したらいいのだろう。そもそもYさんは、人類の滅亡などというものを、実感していないから、いかにも達観したようなことを平気で言えるのよ。まずは地球に衝突しそうな小惑星をはやく探しだすことが先決だわ。 [主題となった本] ジョン・レスリー著、 松浦俊輔訳、「世界の終焉 -今ここにいることの論理」、青土社、1998年。 |
31号の目次/あすてろいどHP