フルハウス
北沢 のどか/JONA(挿絵) |
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−その1−
朝の光をいっぱいに受けた居間。バロックの調べが静かに流れている。コーヒーカップからは挽きたてのキリマンジャロの香りが漂う。分厚い折り込み広告の束をはずして、ゆっくりと新聞に目を落とす・・・。
難しいことはよくわからないけど、三十億年以上前に最初の光合成をした細菌が、今でも沼や湖でよくみられる? 「どうしても全体(現在の地球上に生息する生物全体のこと)を一部で代表させたいなら、一貫した様式を堅持している生命体をこそ讃えるべきだろう。われわれは今、「バクテリアの時代」に生きている。地球は、今を去る三十五億年前、最初の化石‐もちろんバクテリア‐が岩石中に埋め込まれて以来、常に「バクテリアの時代」であり続けているのだ。」(スティーヴン・ジェイ・グールド著/渡辺政隆訳「フルハウス 生命の全容」、早川書房)
人類は生物進化の頂点に立っている、すなわち万物の霊長である。古代、単細胞の原始生物から出発し、バクテリアから水中生物が進化し、魚類が生まれ、やがて陸に上がって両生類、爬虫類となり、しかる後に哺乳類が現れ、遂に知能を持った人類が出現した。子供の時からそう教えられてきた。でもグールド先生によれば、これは生物進化を生命樹という大木で表したとき、その末端の小枝の先にたまたま現れた人類が、その小枝を逆にたどって根本に至る道をもって、地上の生物のこれまでの経過を代表させてしまった、というわけ。要するに人間が自分に都合のいいようにでっち上げた作り話であって、自然を客観的に捉えれば、こんなことにはならない、というのである。 |
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−その2−
それでは進化って何なのかしら。この「進化」という言葉がそもそもくせ者なのね。何かわかりきったような気がして、日常、気軽に使っているけど、本当はこの言葉が連想させるイメージには、深い背景がありそうな感じがする。とりあえず手近にあった岩波国語辞典で「進化」という語をひいてみる。
ついでにもう一つ、有名な広辞苑なる辞書をひもといてみる。
ああ、これこそグールド先生の指摘しているところだ。しかし、国語辞典がこう書いたからといって、それを誤りと断定するわけにはいかない。少なくとも現在のところ、この辞書にあるような概念は万国共通、長い歴史的背景を持った社会常識ともいえるものだし、私たちの日常的感覚からしても自然なものである。広辞苑の説明で、最初の「生物が」という語をとってしまって、それ以下を「進化」という言葉の意味とするところ、とすればよいのか。ということになると、後半は削除することになる。しかし、このような国語辞典の記述を是とする研究者もいるかも知れないし、少なくとも過去には大勢いたわけだ。
ということになる。 |
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−その3−
われわれは、意識的、あるいは無意識的にせよ、自己中心的にものごとを考えるわけで、人間に都合のいい環境はあまねく地上のすべての生物に対しても普遍性を持つと決め込み、「地球環境を守ろう」とか「地球にやさしく」などとのたまう。
上の文章に少し続けさせてもらうと、・・・それでも、人間は、現在の地上生物を代表するものが人間であるということまで疑うことはなかった。しかし、フルハウスなるこの書物は、いやグールドは、「ホモ・サピエンスは生物全体の代表でも象徴でもない」と高らかに宣言をしてしまったのだ。あなたはどう思いますか。
ちなみにバクテリアの生息領域は地表や大気中から地下数千メートルにおよび、「大気中の酸素を生産し、土壌中では窒素を固定し、草食動物の反芻を助け、エネルギーを太陽に頼っていない地球唯一の生態系の食物連鎖を構築している。(同上)」ということである。第一、人間はそれぞれ自分の体に莫大な量のバクテリアを居住させ、その恩恵を受けて生きている。従って人間の体は、バクテリアの植民地となっているわけだ。「人間の皮膚1平方センチメートルには何十万個もの微生物(その大多数はバクテリア)がすみついている」のだそうだ。「ブリタニカ百科事典」によると、「唾液一滴中には数百万のバクテリアが含まれている」ということである。もしバクテリアの姿を見られるようなめがねをかけたら、目の前にいる愛しい人の顔も体も、各種のバクテリアがびっしりと覆いつくしているのを見ることになる。それでもあなたはキスをしますか。 |
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